「マジックマイクXXL(Magic Mike XXL)」をみました。

去年からずっと観たいなーと思いつつ放置していたやつ。

期待を裏切らない変態青春映画!最高!
前作でのラストがさほど生かされていないのはややショックでしたが、男性ストリッパーってなんなの、と彼ら自身が自問自答しながら最後のショーへと盛り上げていく、愉快な映画でした。ストリッパーが主人公なのに、直接ファックシーンが出てこないという、素敵な作品です。

この映画がいいなと思うのは、男性を通じて女性の尊厳を描き、女性の尊厳を否定せずに男性の尊厳を描くところ。
ストリップ劇場という場所は確かに、欲望のはけ口ですが、一方で、誰もが素直になれる場所でもある。欲望に一つの”劇”を噛ませることで、観客はそれを公のものとすることができる。これはショーであり、劇である。これは擬態であり、演技である。だからすべてをさらしだせる。
たとえば、セレブなご婦人方の飲み会に乱入した彼らは、「ヒーラー」となって彼女たちを癒す。彼女たちが夫には決して見せられない「本当の顔」を全肯定する。それが彼女たちの望みだからだし、彼女たちが思いたい「本当の顔」だから。
したがって、ストリップショーの最高の瞬間は、彼らがすべての欲望をステージで体現して見せたときです。彼らは完璧に、彼女たちの欲望を実現せねばならず、観客としての期待と、女性としての欲求が、舞台上の彼らには重くのしかかっている。それを誰もが知っているからこそ、最後のステージには誰もが驚くはずです。こんなこと、できるんだ!っていう。
映画全体は男同士の友情を描いている、コミカルなロードムービーですが、主演のチャニング・テイタムの尋常ならぬダンスは、かなり見ごたえがあります。きわどいシーンもありますが、ダンス好きな方は友達同士でも、恋人同士でも、見てみるといいですよ。絶対すげー!てなる。なるし、なった方は是非、一作目の「マジックマイク」も観て欲しいです。
http://d.hatena.ne.jp/asukakyoko/20141130#p1

「ルックオブサイレンス(Look of silence)」「グローリー(Selma)」

人間の尊厳について。


ルック・オブ・サイレンス Blu-ray

ルック・オブ・サイレンス Blu-ray

「アクトオブキリング」(http://d.hatena.ne.jp/asukakyoko/20150422#p1)の続編として。非常によくできたドキュメンタリー。
インドネシアで起こった共産主義者排外運動の、前作は加害者側の視点で撮影されましたが、今作は被害者側の視点で編集されました。
騒乱の中で兄を殺された男性が、加害者の家へ行き直接話を聞くという筋。
いずれにしてももっとも恐ろしかったのは、誰もが口をそろえて「私は関係ない」「私は知らなかった」「だから私には責任はない」と言い続けることです。事実かもしれません。でも、それは無実とは言えないのではないかと、感じざるを得ません。現実として人を殺していて、あるいはそれに加担している。それなのに、彼らが自分は無関係だ、知らなかったと言い続けるっていうのは、アレント的なシステムの悪の観点から言えば、彼らは人間であることを放棄した、という事実に他ならない。彼らは判断をやめ、思考することをやめ、責任を負うことをやめ、組織の中で一つの役割を担うことをよしとした。彼らは組織に責任をゆだねた。それゆえ、彼ら自身個別が何をしたかということよりも、彼らの属する組織が何をしたかということによって、彼らは判断されることを認めたはずです。それなのに、彼らの言い草は、まるで自分たちは組織の”誰か”に無理強いされていただけだと言っているかのようです。自分たちが何をしたのかを知っているのに、その責任を決して負おうとはしない。ぞっとしました。そしてもっとぞっとするのは、きっと私自身は彼らと同じ側にいつでも立てるんだろうということです。私は人間でありたいけど、彼らを責められるほど、彼らと違わない。それが一番ぞっとしました。


グローリー/明日への行進 [DVD]

グローリー/明日への行進 [DVD]

ぼんやりとしかわかっていなかった公民権運動の、血みどろの歴史。面白かった。
「ルックオブサイレンス」と異なり、ほぼ事実ではあるものの、かなり高揚感を伴います。これが映画の力、物語、ドラマの力なのかと。
非暴力、が現実として何を意味するのかというと、とにかく人が死にました。相手が暴力で向かってきても、なすすべがない。劇中でキング牧師はたくみにメディアを利用し、自分たちの活動がいかに平和的であるかと同時に、彼らを迫害するものの姿を描き出そうとします。確かに、それは成功しました。最終的に、彼らは選挙権を行使できるようになった。
でも非暴力が意味するのは、無抵抗であるがゆえの非力さと、その非力さに言い訳できない方法で行われる暴力の、グロテスクな露呈です。結局暴力はとめられない。だから、理想の実現の過程で、犠牲者が出る。でも、彼らは暴力で抵抗したいのではない。彼らは、アメリカのイチ市民として、権利を得たい。彼らの目的はあくまでも、彼らの存在を公に認めてもらうこと。それゆえ、あくまでも非暴力を貫き、自分たちが可能な、とても地道な行動で社会の目を変えようとする。
アメリカの暗部でありながら、アメリカだからこそ意味を持った活動だったと思います。
キング牧師と彼に共感した人々の行動は私にはマネできない。でも、私自身が「白人」になりかねない、私自身が迫害者になりかねない、そういう可能性のことをもし思わないでこの映画を観てしまったら、それもまた危険かもしれないと思います。
私たちは暴力や感情を思いのままにぶちまけてはいけない。私は人間でいたいし、だからそのために、やはり理性を失いたくはないと強く思います。正しさは、自分自身の権利にとどまらず、自分のあとに続く、多くの人の権利にも影響する。だから私はできることならキング牧師の側に立っていたいと思いますし、そのために考えることをやめたくないと、強く思います。

「ライフオブパイ」「アメリカンスナイパー」「キングスマン」「アントマン」

気づいたら2月も半ばです。日が長くなりました。

正月に実家へ帰ってる間に、TVで放映していましたので。
思ったより面白かったです!トラとボートに乗って漂流するだけの映画なんて、どうやって間を持たせるんだろうと(そういう意味では少年を射殺するかどうかで何十分も持たせるアメリカンスナイパーもそのあとどうするんだろうと思いましたが)疑問でしたが、まぁ、いろいろ起こってとても面白く観られました。
映像のつくりはウェス・アンダーソン風ですが、それほど入り組んでいません。他人に真実を語るには、物語の形を借りるしかありませんが、その物語が真実かどうかは、結局のところ信じるかどうかでしかない。映画も、小説も、巨大な嘘には違いありませんが、ともあれ、よくできた物語を観るのは楽しいです。観る人を選ばない映画だと思いました。


かなり観るまでためらいましたが。ちゃんと作られている映画でした。実在のスナイパーの物語。
戦地で何が起こってるんだろうっていうのは、なかなかわからない。銃やら爆弾やらリンチやら、人が大量に死んでるって言われても、実感なんてわきません。今作ではそれが、一人の兵士の視点から仔細に描かれます。特に、過去の戦争ではなく、今世紀に起こった、かなり直近の戦争であるという点も大きい。
正直、地上戦って地味で過酷なだけで、一切のカタルシスがありません。もっというと、思ったより人は死なない。死なないんだけど、アメリカの日常の生活からシームレスに戦場が登場し、その中で少人数とはいえ確実に人が死ぬ事態に直面することの断絶とショックがすごい。ぼーっと立ってるだけでは死なない場所から、隠れても爆撃されたりして死ぬ場所へ行くって、もうどういう精神状態でなされているのか想像できない。
そういう想像できなさがちょっとわかる、そういう映画だと思いました。戦争についてよくわかんないなーって思ってる人に見てほしいです。


親友に「だまされたと思ってみてみて」と言われ、見てみました。面白かったです!
ぜんぜん、007よりきちんと作ってあった。いったいここからどうやって助かるつもりなんだ…っていうところでもちゃんと生き延びる、由緒正しいスパイモノです。
ていうか、この映画はサミュエルさんのための映画だと思う。サミュエルさんがフィーチャーされすぎ。サミュエルさんの悪い感じがきちんとでており、ちょっと間抜けな悪役として輝いていました。ただ、生体認証システムは失敗だと思う。
コミカルなスパイモノがみたい人には、007よりこっちかなと。イギリス的ブラックユーモアが大丈夫な人には絶対おすすめです。


まったく期待していませんでしたが、今年に入ってから観た映画の中では今のところナンバーワンです!これはいい映画。
冷戦時代に工作員として暗躍した極小サイズの兵士が、妻をなくしたことにより封印した技術を、別の人間が再度開発し金儲けに使っちゃおう!っていうところからスタート。いやいやそういう技術は悪用されかねんからあんまり公にしちゃいかんのだ、と元の開発者が止めに入るため、使える人間を探していたところへ、逮捕歴あり、離婚しているけど娘は大好きなスコット氏に白羽の矢が立つわけです。
アリサイズで何ができるんだよと思っていましたが、想像以上にいろいろできた。予想外だったのは、アリサイズになるだけじゃなくて、アリ自体を操れるところ。アリ、かっこいい!アリ、すごい!すべて極小サイズで展開される物語なのでスケールは小さいのですが、アリの大活躍が眩しすぎる。
まったく気負わず観られる映画なのに、命の大切さだとか、家族の大切さだとかが感じられて、とてもよかったです。
重大なヒントを出しておくと、戦車とトーマスには気をつけろってことかな。
アベンジャーズとの絡みも入ってきていて、楽しくみられました。おススメ!

「チャッピー」をみました


ブロムカンプ監督の新作ということで。面白かった!
ギャングスタ系ロボット映画という新しいジャンルをもってくるあたり、ブロムカンプ監督の本領発揮。
エンジニアが好奇心に任せて作ったAIがうまく起動したはいいものの、ギャングスタファミリーのてに落ちてギャングスタ教育された挙げ句犯罪の片棒を担ぐことになるといった筋です。最終的にはギャングスタAIは野に放たれるというところも、ブロムカンプらしくてよかったです。
リミットを区切って自分自身を「生かす」ために七転八倒する主人公を描かせると、彼はすごくいいです。特にそれが、地球外生命体とか、ロボットだと。前作のエリジウムはそういった種族や生命を往き来するダイナミックさに欠けていたので、今作は個人的に大変満足しました。
ハイライトはやっぱり、手裏剣を会得し真のギャングスタになっていく一連の教育課程でしょうか。開発者が道徳的な教育をしようとするのにたいして「なぜ彼をコントロールしようとするの」とママが言うシーンにはハッとさせられるものがあります。私たちは自分の正義に従って生きているだけで、子供には、それを仮初めの足掛かりとして伝えるしかないのだろうと、そんなことまで考えてしまいました。
成長ものとして良くできていましたが、若干残虐シーンがあるので、成人以上のファミリーでご覧になるのをおすすめします。

「ミニオンズ」「アベンジャーズ エイジオブウルトロン」「007スペクター」「バードマン」

ふざけた映画ばかり。


大好きなミニオンたちの映画!抜群の安定感でした。
ミニオンたちの出生の秘密が描かれるという壮大な物語のはずなんですが、終始コネタに腐心していた印象。というか、ミニオンて博士がバナナと脂肪でつくった人工生命だったはずなんだけどあの設定ってどこいったんだ。
主要な部分をすべてトレイラーで先取りしてしまっていたせいか、ちょっと本編が物足りなく感じましたが、それでも十分楽しめました。これは、あまりあれこれ考えず、ミニオンたちのいたずらをうふふと生ぬるい目で観ながらお茶を飲む映画です。ご相伴にはお菓子とコーラをおススメします。


アベンジャーズシリーズはだいぶんご無沙汰していましたが、エイジ・オブ・ウルトロン。まぁ、こういう映画ですよねという。ざっくりいうと、最新システムを扱うのに全員油断しすぎたせいで危機に陥り、ジャービスとタンスにしまっていた戦艦が助けに来るので都市も空中分解程度で済んだっていうお話です。弓の人がよかった。
アベンジャーズ世代交代ということで、なんかウォッチメンの青い人的ポジションに赤い人が出てきました。強そうなんだけど今後どうなるんだろう。アメコミ映画ってそういう期待を時々置き去りにしてくれるのでそのあたりには何も期待しません。


「007/スペクター」オリジナル・サウンドトラック

「007/スペクター」オリジナル・サウンドトラック

DVDがまだ発売になっていないようなのでサントラの画像でお楽しみください。促されるまま劇場まで行ってきました。思ったより楽しめました!ちょっと盛りだくさんにしすぎており、まぁでも盛りだくさんにした割にはがんばってまとめていましたし、レア・セドゥがかわいかったからいいか。モニカ・ベルッチは素敵だったけどいるかいらないかでいったらいらなかった。ベン・ウィショーはかわいい。世のナード男好きはあれを見て喜ぶといい(喜んだ)。
あと、クリストフ・ヴァルツ。あの人のいいところは軽妙な悪を演じられるところであって、軽妙さのない悪をやらせても軽妙になってしまうという良くも悪くも癖のある役者さんだと思います。今回でいうと背後で全部糸を引いていましたよという割には、装置がお粗末だし、最後のビル爆破シーンに至っては、これ、ヴァルツさんがコツコツ仕込んだのかと想像してしまい、陰鬱なシーンなのに微笑ましい気持になりました。
ああこれどこかで…と思ったらあれだ、『バットマン ダークナイト』のヒース・レジャーだ。定められた役柄以上のものを求められないキャラクター映画である限り、彼らの演技というのはおそらく、意味を成さないものになってしまうんでしょう。映画の流れに負けちゃう。
ともあれ、前半部分のアクションや、Qの持ってくる道具が役に立たないシーンなど、わくわくする場面はいっぱいあるので、前作まで見ている方はぜひ。


面白かったんだけど、いろいろなひっかかりが残っていく映画でした。映画と演劇のステレオタイプな対立構造を映像を通して描くという捩れた映画です。かつてヒーロー映画で活躍した役者がブロードウェイの舞台に立つというシンプルな筋です。ブロードウェイはハイソな金持ちが演劇を楽しむ場所であり、大衆娯楽映画にでて名前が売れただけの素人が来るところじゃない、そんな風に批判される主人公は、自分が注目を浴びたいだけなのか、真に演技のできる役者として評価されたいのか、の間で揺れます。ゆれるんだけど、いいじゃないか、俺は注目を浴びたいだけの人間だし、ヒーロー映画に出ていた、ただの有名人だ。それでいい。ならそういう風に死んでやろうということで最後のシーンになるわけですが。
まず最後のシーンはすごくいい。凡庸な役者が真に迫る演技をする(おそらく手に持った本物の銃のおかげで)というこれまでとの落差が素晴らしいし、それは彼自身が立っている舞台の演技でもあるから、なおいっそう、スリリングです。
それなのにそれを映画として見せられている我々という、幻想の詐称に、見ている者はどうしても気づかざるを得ない。私たちは、「演劇をテーマにした映画」を観ているんだということに気づく。それは映像の中で繰り返し現れるマジック・リアリズム的な表現であり、彼自身の聞く声でもある。
と書いてみると、なんだか面白かったような気がするんですが、面白かったにもかかわらず、何か、おおよそ監督の意図がわかってきてしまうところにいたって、ちょっとした落胆もあります。個人的に、映画に期待しているのはある種の定式化された表現か、そうでなければ、完全にわからないのになぜか映画として成り立ってしまっているという驚きだから。イニャリトゥ監督の映画は、そういうところがあまりなく、わかるんだけど、わかるだけに、想像以上の面白さには出会えなかったという感想になってしまう。
これは完全に私の趣味の話なんで、見る人が見たらきっと楽しめる映画だと思いますし、確かに、私は面白く見ていました。それに、エドワード・ノートンの役どころもなかなかよく、改めて彼はいい役者さんだなぁといったことを感じる映画でもあるので、そうですね、マイケル・キートンエドワード・ノートンが好きなら、観てもいいと思います。

ノスタルジックメモリー


記憶がいつも甘く、再会が常に喜びに満ちてばかりはいないという話。


成長って挫折の積み重ねなんだと思います。
私は、もっとも多感だった頃に、身体表現を生業にするのをあきらめました。
だって、自分より情熱があり、才能のある人たちがあんなにいるんだから、自分でやる必要がなくなってしまった。
でも、その場所がすごく好きだったし、そこにいる人たちのこともすごく好きだった。
だから、しばらくそこにいました。役者としてというよりも、お世話係として。


それから20年が経って、ほとんど交流もしていなかったその後の人たちが、積み重ねてきた努力によって、私がかつていた場所は、ずいぶんと、整った場所になりました。
立派なスタジオもでき、才能のある役者さんが育ち、あちこちで公演できるまでになった。
その足跡を祝って、小さな宴会が催されました。


相変わらずです。
いい意味でも、悪い意味でもなく、彼らは彼らのまま、成長していました。
私は奇妙なねじれた感情を感じながら、その場にいました。
再会が嬉しく、これだけ立派なものになったのが嬉しいのと同時に、そこに依然として残っていたものが、私がかつて苦しめられたものであり、痛々しい思い出としか結びつかないものだったから。
当時は、よくわからないままに流されていたものが、今目の前にすることで、明らかな否定的な意味を持ってしまった。


私は逃げたんです。
自分が一番上手にできない場所から、自分が何も報われなかった場所から、単に逃げた。
役者の世界は、身体表現だけがすべて。
すべての能力は、表現されなければ意味がありません。
どれほど台本の読解力が高くても、どれほど真摯に稽古に取り組もうとも、それが身体表現として、観る者に何かを訴える形にならなければ、何の意味もない。
才能と、その場に現出する形がすべてなんです。
そして今になってわかるのは、その才能を感じた人たちでさえ、役者としては生きていないという事実です。


よくわからなくなりました。
確かに私は、あの頃情熱をもって取り組んだことに再会できて、何かしら感動していました。
それなのに、私はあの時に受けたある種の否定を、結局なにも乗り越えられていないのかもしれないとも思った。


再会とはこれほど残酷で、自分を無様にするものだったろうか。
もしかするとそれは、私のわからないいくつかの目配せが意味するものだったのかもしれません。
なぜあの人はこの場にいないのか。
なぜあの人は役者にならなかったのか。
それなのに、なぜ彼らは、これほどの情熱をもって舞台に立てるのか。


現実とは、自分の信じる幻想へ加担することです。
だとすると、私は彼らが口をつぐむことで加担する幻想を壊すべきではない。
ただ、彼らの作るものを観ることで、その幻想の一端を知るだけです。


成長とは一直線ではなく、むしろもっと入り組んだ、毛糸のようなものかもしれません。
先へ進んでいるようでいて、少しずつ形を大きくしながら、見える景色を変える。
久しぶりに、私はビジネスライクな直線モデルではなく、迷いながら進む毛糸玉モデルから人生を振り返った気がします。
自分の人生だって、これほど多様に見えるのですから、きっと、私がみたあの夜の舞台も、私が見るものよりはずっと複雑なんでしょう。
なんにしろ、3月の舞台には行かなくてはと思っています。
もっと糸がこんがらがるだけのようにも、思いますが。

「ホドロフスキーのDUNE」「インヒアレント・ヴァイス」「グランドブダペストホテル」「ファーゴ(Fargo)」「007 SKYFALL」「ハンナ・アーレント」

3ヶ月ほど放置していると見た映画ばかりたまり、たまったけど書いていないと書くのがおっくうになり、結果として観たことも忘れるという循環に陥り、割とそれでもいいかって思ってしまうので、たぶんそれほど映画に対する愛がないのかもしれないなと思い始めましたが、いい映画も観たんで、忘れないうちに書いておこうと。あとコロンボブームも平行してまだまだ続いています。最近展開がよくわからない話が多いです。あとあれ、何回も同じ人が犯人役やってるから混乱する。


おじいちゃんの妄想に振り回された人々の証言映像。ヒーローになれなかった息子が物悲しいのと、小説と違い、映画って実現しなかったらほんとタダの妄想なんだなということを思い知らされるという意味では、テリー・ギリアムドンキホーテに通じるところが。映画って、ほんと大変なんですね。もちろんこんだけ大変なものが興行的にコケるとか夜も眠れないと思いますが、それ以前に完成しなかったのに莫大にお金がかかった2作については、ほんとご愁傷様でしたとしか言いようがない。そういうお蔵入り映画って、結構あるんでしょうね…知らないだけで。


ポール・トーマス・アンダーソン監督の最新作!最高面白かった!でもよくわかんない映画!
この監督はどんどん進むなぁと。ケツを素手で叩きまくってからいきなりセックスするシーンとかもう意味わかんないけど切ない感情だけは伝わってきて「よくわからないけど(感情では)すごくわかる」状態にもっていくのがどんどんうまくなってる気がします。およそ一回もそんなシーンに出くわしたことがないにも関わらず、なぜか心が動かされる。ピンチョンの原作のほうを私は読んでいないのでそこは何とも言えないけど、警官がタバコをむさぼり食うシーンなんて、ゴジラにしか見えず、ゴジラがいきなり扉をぶっこわして部屋に入ってきてタバコをむさぼり食う様子を呆然と主人公が眺めるんだけど、そこでなぜか泣くんですよ。そして完全に支離滅裂なのに、私も切なくなってしまった。「ああ、そうだよね」って思っちゃったもんな。なんというか、そういう映画です。あと、謎は一個も解決されないです。


しみじみ面白かったです。いい映画。
時代に取り残された人の最後のあがき。あるいは、一世一代の大博打というか。物語が2重構造になっているのも、面白かったです。いや、3重構造かな。こうなるともう、本当のことも、虚構も、区別がつかないし、それを目の前に映し出せる映画って素敵だなぁと、いつも自分が夢を見ながら感じる楽しさを、映画で再現してもらっているようでした。
ウェス・アンダーソン監督苦手でしたが、きちんと作っている映画については面白いということがわかったので、毛嫌いせず見てみようと思いました。


TV版と、映画版と。どっちも面白かったですけど、コーエン兄弟出世作という割には、けっこう地味でした…。
TV版の方が、謎の殺し屋の不気味さだったりとか、悪が伝染していくシステムだったりがうまく描かれていたように思います。映画って、短いですしね。いろいろと、ツメが甘いよ!って思うところもあったりなかったりしますが、運悪く巻き込まれてしまう人物たちが、どこかの時点で、言い訳のようにして自分で過ちを選択するのが、一番不気味だったかなと思います。


実は、007シリーズはこれが初めてです。面白かったけど、前のヤツも見とけばよかった。
全体として、スパイが時代遅れになっていく中で、年老いて無力になっていく007の葛藤が描かれています。ただ、葛藤が抽象的すぎて、ボンド氏が精神分裂しているようにしか見えない。レフン監督が撮ってもいいのではないかという抽象度の高さ。スパイの強さって、別に肉体でも頭脳でもなく、情報なわけで、その情報がバンバン漏れだす時点で役に立ってないんだけど、ボンドはあきらめない。お前死ぬぞ、と言われながらも敵に向かっていく。これはどちらかというと、自殺に近いのでしょうし、そこではすでに、国は失われてしまっている。個人と個人の戦いであるように見えます。でも、最後に従属を断ち切ろうとした敵を、自らのナイフで殺すとき、ボンドは結局、自分の従属をより強くしたのではないか。彼が007というコードネームを名乗るとき、彼は個人ではなく機関の一部であり、結局最後まで、彼は個人ではなく、機関の一部であることを選んだんじゃないかと。それは幸福でも不幸でもなく、彼が生きるということは、すなわちスパイである007としてだけなのだということを、この映画は描きたかったのかなぁというようなことを考えつつ、次回作も観てみようかなって思いました。(まんまと)


地味な映画でしたが、面白かったです。
アーレントの考えた「悪」や「全体主義」のことが少しわかるかも。「私が愛したのは、どんな人種でもなく、友人たちだ」という彼女の台詞は、彼女自身が口にしたのかどうかはわかりませんが、そう言うしかないのだろうとも感じます。それ以上に、「考えることをやめてはいけない」という彼女の言葉は、今の私にとっては、勇気付けられるものでした。なんというか、「007」と同じタイミングで観たのは、皮肉なめぐり合わせというか。ボンドが自ら考えることをやめ、機関の一部となることを選んだ、人間であることをやめることを選らんだのに対して、アーレントは、強く、人間であること、考えることの放棄に警鐘を鳴らす。一方で、どちらの物語も、「誤って悪を実行する」ことについては恐れている。組織は人ではなく、システムも人ではない。私たちはそこに従うことで誰しも、誤って悪を実行することがあるかもしれない。だから、考えよ、とアーレントは言う。それが人間でいるための最後の方法なんだと。