「ルックオブサイレンス(Look of silence)」「グローリー(Selma)」

人間の尊厳について。


ルック・オブ・サイレンス Blu-ray

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「アクトオブキリング」(http://d.hatena.ne.jp/asukakyoko/20150422#p1)の続編として。非常によくできたドキュメンタリー。
インドネシアで起こった共産主義者排外運動の、前作は加害者側の視点で撮影されましたが、今作は被害者側の視点で編集されました。
騒乱の中で兄を殺された男性が、加害者の家へ行き直接話を聞くという筋。
いずれにしてももっとも恐ろしかったのは、誰もが口をそろえて「私は関係ない」「私は知らなかった」「だから私には責任はない」と言い続けることです。事実かもしれません。でも、それは無実とは言えないのではないかと、感じざるを得ません。現実として人を殺していて、あるいはそれに加担している。それなのに、彼らが自分は無関係だ、知らなかったと言い続けるっていうのは、アレント的なシステムの悪の観点から言えば、彼らは人間であることを放棄した、という事実に他ならない。彼らは判断をやめ、思考することをやめ、責任を負うことをやめ、組織の中で一つの役割を担うことをよしとした。彼らは組織に責任をゆだねた。それゆえ、彼ら自身個別が何をしたかということよりも、彼らの属する組織が何をしたかということによって、彼らは判断されることを認めたはずです。それなのに、彼らの言い草は、まるで自分たちは組織の”誰か”に無理強いされていただけだと言っているかのようです。自分たちが何をしたのかを知っているのに、その責任を決して負おうとはしない。ぞっとしました。そしてもっとぞっとするのは、きっと私自身は彼らと同じ側にいつでも立てるんだろうということです。私は人間でありたいけど、彼らを責められるほど、彼らと違わない。それが一番ぞっとしました。


グローリー/明日への行進 [DVD]

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ぼんやりとしかわかっていなかった公民権運動の、血みどろの歴史。面白かった。
「ルックオブサイレンス」と異なり、ほぼ事実ではあるものの、かなり高揚感を伴います。これが映画の力、物語、ドラマの力なのかと。
非暴力、が現実として何を意味するのかというと、とにかく人が死にました。相手が暴力で向かってきても、なすすべがない。劇中でキング牧師はたくみにメディアを利用し、自分たちの活動がいかに平和的であるかと同時に、彼らを迫害するものの姿を描き出そうとします。確かに、それは成功しました。最終的に、彼らは選挙権を行使できるようになった。
でも非暴力が意味するのは、無抵抗であるがゆえの非力さと、その非力さに言い訳できない方法で行われる暴力の、グロテスクな露呈です。結局暴力はとめられない。だから、理想の実現の過程で、犠牲者が出る。でも、彼らは暴力で抵抗したいのではない。彼らは、アメリカのイチ市民として、権利を得たい。彼らの目的はあくまでも、彼らの存在を公に認めてもらうこと。それゆえ、あくまでも非暴力を貫き、自分たちが可能な、とても地道な行動で社会の目を変えようとする。
アメリカの暗部でありながら、アメリカだからこそ意味を持った活動だったと思います。
キング牧師と彼に共感した人々の行動は私にはマネできない。でも、私自身が「白人」になりかねない、私自身が迫害者になりかねない、そういう可能性のことをもし思わないでこの映画を観てしまったら、それもまた危険かもしれないと思います。
私たちは暴力や感情を思いのままにぶちまけてはいけない。私は人間でいたいし、だからそのために、やはり理性を失いたくはないと強く思います。正しさは、自分自身の権利にとどまらず、自分のあとに続く、多くの人の権利にも影響する。だから私はできることならキング牧師の側に立っていたいと思いますし、そのために考えることをやめたくないと、強く思います。