哲学者:バークリ、ヒューム

とりあえず、ここでおしまい。次はカントなので、片手間ではちょっと…。っていうとイギリス経験論の哲学者をよく知る人たちに怒られてしまいますが。


2008/02/11追記:「バークリ」「ヒューム」等で検索してここへ来られたみなさんへ。このような記述は蛇足かもしれませんが、以下の記事を読まれる前に一応ご覧下さい。
以下の記事は真剣にバークリやヒュームについて研究した人間が書いているのではありません。誰でも見ることができるというウェブページの特性上、私の能力の限りを尽くして誤りを減らし、正確に書くよう心がけてはおりますが、専門家から見れば記述に不正確な部分や、誤解が含まれていることは大いにあり得ます(私は自分の努力が完璧さを保障するものではないと考えています。それは恥ずべきことですが、残念ながら事実なのです)。それゆえ、ここの記述を理解の一助として頂いたり、レポートなどに用いることはまったく自由ですが、それに対して責任を負うことはできません。どうか、ご自身で記述の妥当性をご検討の上、ご利用下さい。


■George Berkeley(1685-1753):『視覚新論』『人知原理論』
 ロックの考えとその問題点は、バークリと、後述するヒュームに受け継がれた。バークリはすべての心の対象は、心の知覚を離れては存在しない、つまり「存在するとは知覚されること(Esse est percipi)」だと主張した。彼が存在を認めるのは、精神の唯一の対象としての観念と、この対象を知覚する唯一の実体としての精神のみである。
 ただし、バークリは、抽象観念を認めない。バークリによれば抽象観念とは「普遍的代表の機能を負わされた、それ自体としては、一個の特殊な感覚的記号」(杖下他[1984]、p.117)である。これは現代で言う概念(concept)に近いものだ。この考えはヒュームにも継承された。
 たとえば、三角形一般、を考えてみよう。バークリによれば、こうした一般観念と思われるものも、心の対象として現れるときは、何らかの特殊な現れ方をしている。たとえば三角形ならば、何らかの形をした三角形として現れる。ところで、一般観念をたとえば二等辺三角形とすれば、一般観念であるにもかかわらずその三角形の観念は不等辺三角形にはあてはまらない。逆もまた然りである。それゆえ、一般観念のような、あらゆる三角形を代表するような観念を心の対象として抱くことはできないのである。
 また、バークリのテーゼ「存在するとは知覚されること」は、「知覚されないならば存在しない」というテーゼにもなる。このためバークリは、ロックにおいては許容されていた、観念の背後にある未知の何かとしての物体的実体を、完全に抹消する。また、ロックが二次性質から区別した一次性質を、見方に応じて変わるのだから二次性質と変わらないとして批判する。
 だが知覚されない観念が存在しないとすると、個人的主観を越える対象は存在しないこととなり、独我論である。独我論はまずい、ということでバークリは他我の存在を無造作に認め、主観一般を要請し、最後は神の心に宿る観念をも認める。独我論から万有在神論(panentheism、マルブランシュ)あるいは唯心論(spiritualism)の方へと一気に駆け上るのである。


■David Hume(1711-76):『人性論』
 ヒュームもやはり人間の精神、心の対象を研究対象とするが、ロック、バークリとは違い、それを知覚(perception)と名づけ、その中で印象(impression)と観念(idea)を区別する。ただ彼は、知覚に「単純」と「複合」の区別を設ける点ではロックに倣う。
 印象とは、未知の原因から感覚に生じる対象であり、その中でさらに感覚によるものと内省によるものとが区別される。内省によって得られる印象とは、感覚によって得られた印象の観念に起源をもつため、結局のところヒュームは感覚をもっとも重視している。得られる順序としては、感覚→印象→観念→内省による印象→観念……という具合。
 観念は基本的には印象と変わりないが、記憶(memory)と想像(imagination)における再現であり、力(force)と生気(liveliness)という点で印象に劣る。記憶は活気(vivacity)の点で想像よりくっきりしており、また印象の原型を保存する。想像の方は記憶ほどくっきりしておらず、印象の原型を任意に変えることができる。
 しかし任意とはいえ、まったくの自由な想像、なんてものから知識が生まれてくるとは考えにくい。そこでヒュームは観念に関係を与える想像の働きに、二種の関係を認める。自然的関係と哲学的関係である。哲学的関係の中にも二つの区別があり、絶対確実な知識を形成する必然的結合と、蓋然的知にとどまる結合である。前者には類似、反対、質と量が入り、後者に同一性、時・空間の関係、因果が入る。絶対的知識にみえる同一性や時空間や因果といった関係が蓋然的知、というところがヒュームである。
 さて、ヒュームが考察の中心としたのはこの因果だった。因果関係とは、原因と結果という二つの観念間の、接近、継起、恒常的連接、である。ヒュームは、これだけでは因果関係のもつ必然性は生まれないと考えた。ではそれはどのように得られるのか。恒常的連接によって心に宿る習慣によって、である。習慣は一方から他方へ向かわざるを得ないような「心の決定」を生じさせ、これが因果関係の観念の源泉となる、反省的印象、つまり内省によって得られる印象なのだ。
 他にもヒュームは様々なものを斬って捨てるが、ともかく外在的実在、というものを徹底的に排除する。特徴的なのは、ロックが消極的に認め、バークリが否定した物体的実体の完全否定と、そして自我という実体の否定である。ヒュームの手にかかると「知覚の束」として知覚が現れては消えあるいは再登場する場でしかなくなってしまう。
 ロックにおいては神、心、物体的実体が、バークリにおいては神と心が認められていたが、ヒュームに至っては、ついに神と、心でさえも認められなくなってしまった。
 ただし、ヒュームの議論は懐疑主義の色が濃いが、他方で彼は「自然」に照らして極度の懐疑主義は現実に成立しないとする「緩和された懐疑主義」を提唱した、と杖下氏は書いている。


■参考文献・ウェブサイト
杖下隆英、増永洋三、渡辺次郎編『テキストブック 西洋哲学史有斐閣1984.
『岩波・哲学思想事典』岩波書店、1998.
森田邦久「勝手に哲学史入門:第3章 大陸合理論とイギリス経験論」
http://www.geocities.jp/enten_eller1120/modern/cont-exp.html
「対戦型哲学史
http://homepage1.nifty.com/kurubushi/