グッドマン「いつ芸術なのか」レジュメ

この間の会で発表した原稿の抜粋をここにも置いておきます。下のエントリとあんまり変わらないことを言ってるようですが、「いつ芸術なのか」のだいたいの感じはつかめると思います。読むのめんどいなーっていう人はこれをみて面白がったりつまんながったりしてくださいまし。


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ネルソン・グッドマン「いつ芸術なのか」(ネルソン・グッドマン(菅野盾樹訳)『世界制作の方法』筑摩書房、2008、 pp.113-136.)


 「いつ芸術なのか」はコンパクトでありながら、グッドマン独自の考えが色濃く反映されたテキストです。特に焦点は、「芸術とは何か」という問いの再考にあります。芸術をめぐって「欲求不満と混乱のうちに終わる」(p.113)状況を変える試みを、グッドマンは記号理論の成果を用いて行います。今回の輪講会では、普段私たちが芸術について持つ印象や考察に、グッドマンがどのようにして新しい光をあてるのか、を理解することが大きなポイントだったと考えます。


 第一節「芸術における純粋なもの」では、最初に芸術作品が<象徴する>という言葉遣いの微妙さが取り上げられました。象徴するという言葉遣いに対して私たちは二種類の解釈をあてることができます。つまり、一方でボスやゴヤの絵が「象徴的」だと言われる場合に取り沙汰されているのはその絵画の描写する秘儀性や超自然的なものであり、他方で本来の意味で象徴、つまりsymbolであるということで言われているのは、絵画が何かを象徴する、すなわち絵画があるものの記号だということです。
 ところが、芸術にとってそうした言葉遣いと分類基準の微妙さ以上に問題となる考えがあるとし、グッドマンはここで、純粋芸術という思想に孕まれている幾つかの前提を明らかにしています。第一に、芸術作品が象徴したり指示したりするものは芸術作品の外にあり、芸術作品とは切り離せるという考え、第二に、芸術作品には作品そのものがもつ内在的特性があり、それこそが芸術作品であるところのものだという考え、第三に、それゆえ芸術作品が行う象徴作用は邪魔なものであり、不要であるという考え。これらをまとめてグッドマンは純粋主義と名づけるのですが、こうした考え方は次に見るようにジレンマを呼び起こします。(ちなみに純粋主義という具体的動向があるのではなく、近代以降の芸術家や評論家たちの中心となる思想的傾向のことをグッドマンがそのように名づけていると考えられます。)


 第二節「あるジレンマ」ではそのジレンマが主題となります。つまり、純粋主義を受け入れることも、拒否することも、芸術にとって好ましい状況をもたらさないというジレンマです。そこで「純粋主義者の立場を、全面的に正しいが、同時に全面的にまちがったものとみなす」(p.118)ため、グッドマンは芸術作品とそれが象徴するものとの関係を再考します。純粋主義者の言うように、芸術作品の指示するものは芸術作品の外部にしかないのか、何も再現しない絵画はまったく象徴的ではないのか。
 まず、芸術作品という記号の表現するものは、芸術作品の外部にしかないのか。これは否です。記号の内部に記号の指示するものがある事例はあります。
 次に、何も再現しない絵画はまったく象徴的ではないと言えるのか。これも否です。何も再現しない作品であっても純粋主義の要求を満たさない、と考えることはできます。まず象徴的でありながら、何も再現しない作品もあります。たとえば、一角獣を描いた作品がそうです。一角獣は想像上の動物(?)ですから、一角獣の絵によって指示されているものが存在しません。つまり、一角獣を再現している絵ではないわけです。更に、何も再現せず、まったく具象的でない抽象絵画が、感情やその他の性質、情動や観念を表出することがあり、これは象徴的な作品だと考えられます。ここで行われている象徴作用は<再現>ではありませんが、<表出>もまた象徴作用の一つですから、結局そうした作品も象徴的と呼ぶことができます。
 このように見ていくと、純粋主義のような考えでは、具象的絵画だけではなく、抽象的絵画でさえも芸術と呼ぶことができなくなることがわかります。それでも純粋主義者たちは、芸術作品の持つ内在的特性はまだ純粋芸術を見いだす基準として役に立つと言うのかも知れません。しかし、こうした特性もまた意味をなしません。内的/外的という区別そのものが怪しいし、仮にその区別を認めるとしても、どのような絵画も両方の特性をもつと言えるからです。
 結局純粋主義者の言う純粋芸術の基準はどれも役に立たないので、依然として、純粋芸術とみなされるものにとって重要な特性は、その他の特性からどのように区別されるのか、という問いが残されます。この問いには答えがあるとグッドマンは言いますが、同時にそのためにはこうした論じ方を一度捨て去る必要があると言います。


 第三節「見本」でグッドマンは新しい芸術の論じ方を提示していきます。ここで持ち出されるのが、見本です。一見唐突ですが、この見本という事例には、新しい問いのための要点が凝縮されています。まず見本とは、そのものがもつ特性すべての見本ではなく一部の見本であり、さらに重要なのは見本が行う例示という記号作用です。第一点目についてはトリシアス夫人の二つの話が示しています。また菅野代表が指摘されましたが、もしある小切れが、その小切れがもつ特性すべての見本だとしたら、その小切れはその小切れ自身のみを例示し、その小切れ自身のみの見本であることになります。第二点目がとりわけ重要ですが、何かの見本であるという関係は、ある特性を例示するときに現れる関係です。それゆえ、それは見本である小切れの持つ特性を見ることでは発見できません。小切れがその見本であるところのあるものとの間に保つ関係を見なくてはならないのです。
 見本に関する考察を通して、グッドマンは芸術作品にその教訓を生かそうとします。つまり、先の、芸術作品にとって重要な特性とは何かという問いに、次のように答えます。


「その絵があらわにし、選択し、焦点をあわせ、展示し、われわれの意識裡に際立たせるような特性――絵がひけらかす特性――要するに絵が単に所有するだけでなく、例示し、絵がそれの見本であるような特性なのである」(p.126)


 グッドマンは、再現や表出、例示のいずれかを欠く芸術はあるが、そのどれもを欠いている芸術はない、とします。つまり、純粋主義者が擁護したいような純粋芸術にさえ、記号作用はあるわけです。このことを考慮に入れて、第一節でみたような純粋主義の教説を再考すれば、純粋主義者たちは、例示という記号作用を見落とし、記号の外部にしか記号の表すものがないと考え、絵画の有する特性が大事だと考えた点(特性の例示、ではなく)で、誤っていたということになります。


 さて、こうした一連の考察をへて、グッドマンは「芸術とは何か」という問いの再考に取りかかります。グッドマンによれば、芸術作品の記号作用を念頭に置き、無用な切り捨てをせずに芸術作品を分析するためには、「あるものが芸術作品であるのはいかなる場合か」「いつ芸術なのか」(p.129)と問うことが必要でした。つまり、ある作品の特性を分析する向きをもつ「芸術とは何か」という問いよりも、「いつ芸術なのか」というある作品が芸術作品とみなされる場面を分析する向きをもつ問いの方が、記号作用である芸術を分析するのに向いているということです。グッドマンはこの問いに次のような答えを与えています。


「ある対象は、まさに記号の機能を一定の仕方で果たすことによって、そうした機能を果たし続けるかぎり、芸術作品になる。」(p.129)


 「いつ芸術なのか」という問いが行うのは、記号が指示するものから、記号そのものへ注意を向け、集中するよう促すことです。芸術の機能を果たす記号作用について語ることは、芸術が何をしているのかを語ることであり、芸術が何であるかとは異なることを語ることですが、グッドマンはそちらの方を強調します。
 なぜグッドマンはそういう強調をしたのでしょうか。おおよそ次のように考えられます。すなわち、「芸術とは何か」という問いによって問われ、答えられてきたことの中にも、芸術を分析する上で重要なものはあったが、問いの質が悪かったために、他の瑣末な事柄と混同され混乱した状況を招いてきてしまった。それゆえ、記号作用という側面から再度重要なものを発掘し直すことが必要だ。重要なものを見極めた上で、私たちは再度「芸術とは何か」と問うべきだし、そのためには記号作用の側面を見逃してはならない。それゆえ問いは、「いつ芸術なのか」であるべきだ。
 グッドマンにとって常に重要なのは芸術作品のもつ記号作用であり、その側面が見落とされてしまうような問いは、やはりどこか不備があると考えるべきなのでしょう。