グッドマン「いつ芸術なのか」(『世界制作の方法』所収)

asukakyoko2008-03-14


 いつ芸術なのか。この言い方は奇妙だ。なぜなら私たちはいつも、芸術とは何かと問うのだから。あるいは私たちは、そこに描かれているのは何か、と問う。しかし、グッドマンにとって、それはあまり質の良い問いではない。なぜなら、そうした問い方は質の良くない混乱した答えを量産するからだ。実に多くの人間が、芸術とは何かと問い、それに答えを与えてきたが、それらはいつもまちまちであり、机の上を取り散らかすばかりだ。
 ところが、その原因は問題が難しすぎるからではなく、問いが悪いのだとグッドマンは言う。ではどのような問いが妥当なのか?それは「いつ芸術なのか」である。つまり、作品の特性を探求するのではなく、作品がその特性をもつ場面、そうした特性を生むことになる記号作用へ注意を振り向ける必要がある。グッドマンにとって、必要なのは、常に記号に着目することであり、記号作用を通して芸術を考察することである。

 ここで気になるのは、グッドマンが芸術作品を、変化のないものと捉えているのではないかという点だ。作品の同一性と言ってもいい。変化するのは作品をとりまく状況や、作品が他のものと取り結ぶ関係であって、作品そのものはいつでも同じようにあり続ける。そういう見方ができてしまう。つまり、「いつ芸術なのか」と問いを変えても、まだ、「芸術とは何か」という問いの残り火が見える。

 純粋芸術が、一つの作品としてありうる、という考えは、それだけでは問題はない。そして、グッドマンのように、それを記号作用をもつものとして、ある状況の中での他のものとの関係として理解する分には、良いのだろう。しかし、一つの作品というとらえ方は、もう一方でやはり「芸術とは何か」という問いを誘発する。作品というものの持つ特性を調べることによって芸術を確定しようという作業に向かいかねない。

 「いつ芸術なのか」と問い続けることが、常に芸術を関係として捉え直すことを促すとしても、作品はいつも同時に「芸術とは何か」という問いを招いている。だから、私たちは作品、絵画、と言うときに、あるいはそれについて語るときに、細心の注意を払わなければならない。あらゆる変化を乗り越えて残る同一のもの、は危険な誘惑であるということ。関係が変化することで、芸術作品もまた、芸術作品であることを止めることが、あるいは逆に芸術作品ではないものが芸術作品となることがある。そのとき、その作品は、同じものが違うように捉えられているというよりはむしろ、違う記号作用の連なりの中に位置づけられ直すことによって、別のものになっている。

 しかし、何かをいっぺんに語ろうとすることは、グッドマンの言うように強い単純化を伴う。それならば、必要なのは、むしろ常に芸術の現れる瞬間を捉え続けることであり、私たちの時代の、あるいは次の時代の芸術というものを、その時々で常に探し確定していく作業であるに違いない。

世界制作の方法 (ちくま学芸文庫)

世界制作の方法 (ちくま学芸文庫)