人間学とは何か (哲学教科書シリーズ)
菅野盾樹人間学とは何か』産業図書、1999


筆者は、いわゆる心身二元論(とそれに伴う一元論である唯物論や観念論)を乗り越え、「記号機能をいとなむひと」という観点を取り込んだ「ホモ・シグニフィカンス」という人間像を提出することによって、「人間」のミニマムな存在構成を考え直しています。つまり端的に「人間とはなにか」という問いへの答えとして、「人間」の定義を探っているように見受けられます。
ちなみに筆者のサイト:http://www33.ocn.ne.jp/~homosignificans/


言語哲学とか分析哲学という領域とはまた違った方法で「わたしたちという存在」について考察しているので、ひとつの見方で凝り固まってしまった頭をほぐすのにとても良いです。そして、あくまで個人的な印象ですが、「言語哲学がうっちゃってきたものを回収して再生して有効にしている」という感じを受けます。
が、「記号」という言葉にひっかかり理解が進まないのでメモしてレッツ整理。


「ホモ・シグニフィカンス」を具体的に記述しているのは4〜6章で、それぞれ「身体」「言語」「心」を主題として取り上げる。
 
4章「身体」
一般に、知覚に関しては、神経生理学者たちによる「知覚の因果説(causal theory of perception)」とか「随伴現象説(epiphenomenalism)」といわれる説明の仕方があって、これは要するに「これこれ神経機構の働きが生ずると突如としてしかじかの視覚風景が飛び出して来る」ということ。で、こういうぎくしゃくした説明は心身二元論に端を発していて、これの他に心と身体のバラバラ具合をどうにかしようという説明の仕方としては「心身の相互作用説(interactionism)」とか「平行説(parallelism)」なんかがある。
筆者はこの「心身二元論をかっこに入れる」=「現象学的エポケーを施す」。
心身二元論デカルトに端を発しているが、デカルトの懐疑が「言語」を前提としなくては発生し得なかったということを考えても、この心身二元論をかっこに入れることには正当性がある、とする。
二元論をかっこに入れた後、新しく提出されるのは「身体-言語-心」で、つまりこれが「ホモ・シグニフィカンスの存在論」となる。(ここで言われる「身体」と「心」はすでにかっこに入れた二元論のようなものではない、とされる)
ここからようやく「身体」の考察に入る。ここで筆者が参照するのはユクスキュル(Jakob Johann Baron von Uexkul)の「環世界論(Umweltforschung)」である。彼(ユクスキュル)にとっての「実在」とは「記号過程」である。つまり何かある変化(作用標識)→知覚記号→知覚標識→作用記号→なんらかの動きという「記号と標識の連鎖」だとする。生体は「記号に反応」し、刺激を「記号へコード化」する。全部「記号」である。このとき生体はそういう記号過程を生む「主体」だ。


(続きます)


 ちなみに産業図書の「哲学教科書シリーズ」にはわりとお世話になっていて、というのは内容が大学の講義を想定して作ってあり、わたしのような門外漢でもとっつきやすいような構成になっているので便利なわけです。野矢茂樹氏の「論理トレーニング」なんかもこのシリーズです。