「パルプフィクション」「キルビル」「キルビル2」「レザボアドッグス」「デスプルーフ」

一ヶ月ほど、ずっとクエンティン・タランティーノの映画ばかり観ています。ずっと避けていたというか、どうせ映画馬鹿の撮ったマニアックな映画だろうとタカをくくっていたというか。観てみたら、面白かった…悔しい…。特に悔しいのは、今まで絶対観ないと心に誓っていたキルビルが(しかも続編のほうが)案外よかったことです。ユマ・サーマンががんばってました。棺おけに入ったらああやって出たらいいんだなって思いました。
タランティーノの映画って、会話や映像の細部が面白い。細部だけでできあがっているのかと思ったら、案外構成もしっかりしていて、そういうギャップがエンターテイメントとしてうまくいってる理由なのかなとか、素人なりに思いました。細部にこだわっている、っていうんではなくて、いい具合に力が抜けてるんだけど、ああ、あるよねぇそういう瞬間、っていうのが、彼らしい。ポール・トーマス・アンダーソン監督は新しい既知になりうる可能性を生み出すけど、タランティーノは既知をフィクションの中で再現する。ウェスアンダーソンは世界を作りこむけど、タランティーノはシークエンスを作りこむ。
コメディのようなタッチで進みながら、パルプフィクションのサミュエルLジャクソンの妙な迫力であったり、レザボアドッグスのハーヴェイ・カイテルがもらすうめきであったり、俳優のもつ魅力がひょっこりでてくるところもすごく面白くて、反対にデスプルーフカート・ラッセルは妙に重厚なのにいきなりやられてしまったりするので、なんというか、タランティーノは全体的にギャップの人なんだなと理解しました。
初期は脚本もシンプルだし、ミニマルなので見やすいです。変に先入観を持たず、早く観とけばよかったと思いました。
いろいろ、人生にはまだ学ぶこともあるんだなとか、適当にまとめておきます。

レザボア・ドッグス [DVD]

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パルプ・フィクション [Blu-ray]

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Twitterのアカウントを消しました。

特別、ここに書く話でもないかもしれないですが、わずかながら、両方をご存知の方もいらっしゃるので。
表題のとおり、Twitterに持っていたアカウントを消しました。
理由は、過去を忘れてもいいかなぁと思ったから。
私はずっと、自分のことを整合性を持って語ることができるのが自分らしさだと思ってきましたが、何かしら、他人のような自分が延々とネット上に生き残っているのも気持ちが悪いものだなと感じ始めました。
そこには亡霊のように、過去の自分が息づいていて、それは自分のかけらを背負っているのに、ある意味では、まったくの他人になってしまっていて、そういうものが唐突に気味が悪くなった。
過去の清算とか、過去を忘れたいとか、消したいとか、そういう衝動も整合性もなく、なんだろう、忘れてもらえない過去、が不気味になったというのが一番近い感覚です。
それに、未練がましく過去を引きずり続けるのもかっこ悪いなぁという思いもありました。
過去に考えたことを取っておけば、後々小説のネタにでもなるんじゃないかと思ったりもしましたが、まぁこの先しばらくそういうチャンスもなさそうですし、なんだか未来のほうを向いていきたい気分でもあったので、衣替えのようなものだといってもいいかもしれません。
内省的な自分のことは嫌いではないですし、そういう時間も自分にとっては必要だろうと思いますが、それを他人にわざわざ見せるのは、悪趣味じゃないかと思うようになったのもの大きい。
内省は自分でやってろと。


この3年ほど、一般企業で働いて、自分自身に大いに社会性が欠けていることに気づきました。特に気づかいってやつ。これが全然できません。
ただ、いいこともあって、その一つが前向きになったこと。
もともと楽観的な性格ですが、ここ最近それに拍車がかかっている気がします。そこで過去のTwitterの投稿とかを見るとなんかすごく暗い。暗いし、「みてみて」感がひどい。自分が大切すぎてまったく周りが見えてない感じがありありと伝わってきて、正直、やや振り返っただけで激痛を伴いました。
今でも、すごく自己中心的で、自分がいかに傷つかないかばかり考えてしまいがちですが、それに気づける環境になっただけほんとありがたい話です。世の中には、他人のことを考えてる人がこんなにいるんだと。


公害のようなものをいつまでも公衆にさらしておくのもなぁという思いも湧いてきて、表題のようなことになりました。これまでご覧くださった方、つながりを持ってくださった方、ありがとうございました。


今後どうするかわかりませんが、自分の中の部活動として、このブログはやっていこうかなと思っています。
割と、そこそこ、正直に書いていると思うので。

ちいさい人を見てなごむ。

最近赤ちゃんや、小さな子を見るとなごむ。年のせいかもしれない。なんせ、人生四度目の年女だ。自分で産もうという気はあんまりないが、誰かが赤ちゃんを連れて職場に遊びに来てくれると無条件に喜ぶ。だって、かわいいんだもん。嫉妬とか、そういうのはあんまりない。産休も育休も時短もどんどんやってくれって感じ。
組織がいいなと思うのは、こういうときだ。働ける人が働ける間は働いて、一方で誰かが休んでても動いていく。一人では、ナカナカこうはいかない。
ハッキリ言って不平等な面もあるけど、お互い様だ。

最近言われてハッとしたのが、「自分の仕事をしてください」という台詞。暇があれば誰かの仕事を手伝っていたのだが、ピシャッと言われてしまった。
気づいたことはふたつ。
誰かの仕事を手伝うっていうのは、その人の仕事を奪うってこと。
そして、誰かの仕事を手伝っていたら、自分の仕事は止まるってこと。
限られた時間と人員で進めるんだから、自分の仕事にはみんなプライドや責任感をもって取り組んでいる。それは、私自身も同じで、私がやらないことで滞る仕事が当然ある。安易に、誰かの仕事を手伝うことは、助けではなく、むしろ自分の仕事からの逃げだし、プライドもってやっている相手にも失礼だった。
少なくとも手助けは、自分のことをキッチリやってからにしよう、そんな風に思った出来事。

「ウルフ・オブ・ウォールストリート(The Wolf of Wall Street)」

ディカプリオさんの過去の残念賞を振り返る。


ウルフ・オブ・ウォールストリート [Blu-ray]

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気持ちいいくらいの拝金主義万歳!ただこれではアカデミー賞は難しかっただろうなぁ、と。だらだらと長かった。面白い場面もいっぱいあったのですが、全体でみると長かった。
実在の、ジョーダン・ベルフォート氏の半生を描いた作品です。で、これはやりすぎだしさすがにフィクションだろうと思ってみてた部分も事実だったのは驚きました。典型的な成り上がりで、詐欺まがいというか詐欺で大もうけして、それで監獄送りになって、でもまた大もうけして、みたいな話。
個人的に一番気に入っている場面は、レモンが効きすぎて酩酊状態のレオさんがガルウィングのスポーツカーへ乗り込むまでのシーン。その後のけんかシーンに至っては町山さんをして「史上最低のけんかシーン」と言わしめたというレオさんの泥酔演技が光っています。あのシーンを嫌がらせかと思うほどしつこく撮った監督の奔放さが気に入りました。
ああいう、すごくわかりやすく悪い人、憎まれ役を引き受けちゃう人ってもうあんまりいないんじゃないかと思いつつ、あそこまでわかりやすくお金大好きだと、逆に爽やかささえ感じる。時間のたっぷりあるときにマティーニでも飲みながらどうぞ。

価値の話、かもしれない。

何と何を交換しているのか、というのが最近のテーマ。
私は、私の行動や時間の束縛、私の知識や感情と引き換えに、ある程度の資金と保障を得ている。
これはたぶん、単体では何の意味も持たないので、他の人の行動や時間があるおかげで生み出されている。


私の行動が何かの意味をもつのは、それが組織においてある役割と機能をもつからなので、組織から切り離して考えるのはいまのところ難しい。
つまり、独立して価値を生むような形には、なってないということだ。


独立して価値を生む装置として機能するには、別の組織や困難との関わりで意味を持つ必要がある。
そして、いまのところまだその領域には、残念ながら到達していない。


これは自分自身の問題でもあるし、自分自身がフィットする場所を見出せていないという問題でもある。
なにより、今の場所よりフィットする場所を見出せるかっていうことを考えると、やや疑問なのだ。


そういうわけで、たぶんしばらくは、今の仕事を続けるだろうなぁと。
そして、価値ってそんなに独立していないし、もっと属人的だったり、何かに強く結びついていたりするんだろうなぁということも、ぼんやり考えている。

「セッション(Whiplash)」

セッションを見ていて、単なるスポコン映画なんだけど、妙にわかるなぁと思った。
サイテーな気分にさせられる、だけどやめられない。やめてしまうのは簡単だけど、自分の理想がもしかしたら、これに耐えた後に待っているのかもしれない。そう思ってしまう。
冷静に考えて、そんなワケはない。もし自分が誰よりも才能があるのであれば、たぶんこんなところでくすぶってはいないし、もしないとしても、このしごきを疑問に思う余裕があるんなら、それは向いてないのだ。単に。
そういうわけで、主人公の最後の演奏は、やけっぱちなのだが、やけっぱちなだけに、えもいわれぬ迫力があるし、それはたぶん、演奏の迫力なのではなく、むしろ、その人の鬼気迫る心の迫力であろう。それにしても師弟というのは残酷な関係だ、いつも。

不意にいま、自分が立っている場所のことが不思議になる。いったい、何をどうしてこの場所へ来たんだっけ。
仕事中のディスカッションで、マーケティングは物語だと私は思った。私は私のことを語れる。なぜその選択をしたのか、結果どうなったのか、次はどうするのか、きちんと一つの糸でつなぐことができる。
でも、不意に思った。誰もが、そんな物語を持ってはいないんじゃない?
だからもし、感情が物語りになるんだとしたら、ずいぶんいろんな人の共感を呼ぶかもしれない。