本にまつわる話の話

意味もなく拾い上げた本から落ちた白い羽が宙を舞い、いつまでも落ちようとしないので見ていた。手のひらに取ろうとすると風が起こったのかするりと手の甲へ回ってしまい、裏返すとまたひらひらと宙へ戻っていく。何度かそんなことを繰り返しているあいだに、手の甲の向こう側が暗くなった。

「あ、すみません」

背の高い男が通り過ぎ、手の甲をあわてて後ろ手に隠しながら、無意味な挨拶をする。いつかあんなふうになるだろうと思っていた。黒いスーツと黒い鞄。革靴に、白いシャツ。美しかった。正しく、どこまでも普通だった。欄干の前の歩道は狭く、私たちはようやくすれ違う。すれ違いざまに私のタイツに男の跳ね上げた泥がついたのを、きっと彼は永遠に知らないだろう。羽はどこかへ行ってしまった。
左手に残る重みのことを不意に思い出し、拾い上げた本を開く。あの羽はきっと鳩が落としていったんだろう。このあたりは多いから。ずっと遠くのほうでカラスの声が聞こえ、それは夕方を正しく告げていた。彼らは朝啼かないのだろうか。いや、だってごみステーションでずいぶんけたたましくやっている。そういえば鳩は啼かない。少なくともカラスのようには。白い紙の上に残る染みの跡はすぐに意味をなさなくなった。大半が泥で読めなくなっていたのだ。まるでロールシャハ試験紙のように、左右で微妙に異なる染みが延々と連なっていくだけだ。最後のページまで開いて、私はそこに公的な身分証明書を認める。ほんの。ひとつ気の利いた挨拶を考える間に着ける距離だった。遠くはない。ただ問題は、私がこれからある種の奴隷労働に従事する直前だということで、そして私は従順な奴隷だという点だ。迷わず橋を渡りきり、万を数えるほど歩いてきた道をたどる。日常に強制力はない。ただ、惰性があるだけだ。本に押された公的印を思い返しながら、もし今日労働が早くきりあがったら、いくかも知れないと思う。だがその時点で、私は分岐した宇宙の「日常」というタイトルがつけられたほうを歩き始めており、それゆえ、「非日常」と名づけられた宇宙を歩く私は、今頃欄干を引き返して押された印のあるほうへ向かっている。だから私は、すでに職場へ到着しながら、同時に到着しないこともできる。私は常に矛盾しており、それゆえ、宇宙は矛盾で満ちている。可能性とは常に、ある種の矛盾のことだからだ。