ピーター・ビーグル『最後のユニコーン』

ブクログに登録しようと再読していたら、以前よりずっとすっきり理解できた。
以前: http://d.hatena.ne.jp/asukakyoko/20060429


このころはやっぱり<二階堂奥歯>にものすごく引きずられていて、物語を読むというよりも彼女を追体験するために読んでいた。それもひとつの読書の在り方だとおもうし、あのときはそんなふうにしか読めなかったとはおもう。でも、いまこの本を読み返すと、そのときは気付かなかった豊かなもの、雑多で整理のつかない、はみ出た部分のようなものがいっぱいある。同時に非常に緻密に構成された、寓意の網のようなものが張り巡らされていて、その緊張感が読者を最後までひきつけるのだと。
再読が面白いのは、理解が深まるということもあるけど、自分を時系列に位置付けて理解できるからかもしれない。以下は今回書いたブクログでのレビュー:


私たちは自分の見たいものを見る。何を見ても、そこにはある種のバイアスがかかる。
純粋にニュートラルな視線というのがありうるとして、それはおそらく論理か言語そのものの中にしかなく、私たちはそれを解釈によって読みとるしかない。世界の真実の純粋さは最初から願うべくもない。


だが、魔法は一方的に訪れる。魔術師はそれを呼びよせ、通過させるにすぎない。莫大な力は唐突で、有無を言わせず、思い通りにならない。魔術師はただ、真実を強制的に反転させる装置として存在するだけだ。そして魔法はいずれの真実を表出すべきかを、それ自身では決定できない。


だからユニコーンが美しい少女になったとき、それは彼女自身がまったく望まないことだった。次第に、彼女は彼女をうまく見ることができなくなる。彼女という真実、ユニコーンの存在は、魔法によって強制的に覆い隠され、閉じ込められて、見えなくなる。彼女自身にさえも。


真実の反転に伴う永遠からの転落。時に従属し、老い、死ぬ。忘れ去られ、失われ、同時に、変化が新しい真実となり、根付く。


いずれの真実が正しいのか、もはや誰も決めることができない。それらはどちらも真実でありうるからだ。そして彼女を救うのは、結局のところ彼女の信ずるものと、彼女の望むものでしかない。


それで、だから、彼女は唯一のユニコーンになった。悲しみを知る永遠という矛盾そのものになったのだ。

最後のユニコーン (ハヤカワ文庫 FT 11)

最後のユニコーン (ハヤカワ文庫 FT 11)