匿名の宛先

宛先を隠して言葉を書くこと。
過剰な隠ぺいは、書かれた内容が誰か特定の他者を意識している限り、また意識が垣間見える書き方をとる限り、隠ぺいとしてはまったく機能せず、かつ、<宛先を隠ぺいしているということ>のみが書かれたものから受け取りうる意図となる。
それは実のところ特定の宛先をもった手紙であり、装いとしてのみ匿名である。そして匿名を装うならば、書き手は常に宛先へ届いているということを期待しているのであり、その自意識ゆえに、そこで披露される匿名という装いは、過剰なのだ。
過剰な他者への自意識が、宛先の隠ぺいを助長する。宛先の隠ぺいは、当の宛先となっている特定の他者にとっては甘美な暗号であり、また別の他者にとっては気味の悪い出来レースである。それは常に互いを見張っていることを前提として行われる一種のゲームであり、しかもそのルールは、容易に看破できるものであるにも関わらず、(ここでもまた)過剰に複雑である。ゲームに参加するために複雑なルールを身につけようとする者は、その努力そのものによってすでにゲームの参加者としてみなされるのであり、それゆえ、ルールの複雑さはゲームの快楽に寄与するというよりもむしろ、参加者を容易に見極めることに貢献する。
かくして人々の一角に奇妙なゲームに興じるグループが完成する。互いに解放と宛先不明を装う発言をやりとりし、ルールを知る者だけがその暗号を読み解くことができる。
巧妙であるのは、ルールを知らぬ者が、一見しただけでは排除されているようには見えないことだ。けれど知る者と知らぬ者とは確実に区別される。そしてその区別の意識そのものが、ふたたび宛先の匿名性を助長する。知らぬ者には内容や宛先はわからぬが、しかし、わからないゆえに排除されているということは理解できる。それゆえ宛先の隠ぺいによる匿名性は、そもそもの本性として、宛先以外の他者を排除しているにもかかわらず、一見するとそうは見えないということによって、自身を擁護する余地を残そうとしているのであり、それゆえ、より一層宛先の他者は内部にいる感じを強め、宛先以外の他者は排除されている感じを強くする。あからさまな敵意(あるいは好意)を隠しているということをあからさまに表示することによって、宛先の隠ぺいは、どの方法よりも巧みに、特定の他者を排除する。