伊藤計劃『虐殺器官』

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)


たまには本の話でも。


虐殺器官』は、果物で言うならうらなりの、未成熟な小説だ。繰り返し、もつれ、戸惑い。率直過ぎるフレーズ、尻すぼみのラスト。消化されるまでもうすこしの食べ物みたいに、ずっと煮え切らない現実が残り続ける。虚構まであといっぽの物語。また多くの人がきっと気付くのだろうが、『闇の奥』との類似性を指摘できる。あの小説は完全に理解できなかったが、こちらのほうはその意味ではまだ理解可能だ。
あるいは、死を目前にした自意識との葛藤。それは小説を書く自己との葛藤でもあり、だから『虐殺器官』は私小説だと言うこともできる。伊藤計劃がつくりあげた「わたし」の物語だ。
ただ、完全な虚構世界にできないところが伊藤の未熟さであり、また、この小説の未熟さなのだとおもう。つまり伊藤は完全に、自意識を小説から離脱させることができなかった。彼は自己の葛藤を小説に投影せざるを得なかった。それは職業的小説家はしないことだ。
その葛藤や迷い、行きつ戻りつによって、この小説を読みながら、私は眩暈に似た感覚を強く覚えた。信念の根拠がつぎつぎに外されていくからだ。登場人物の主張は常にかりそめのものでしかない、という留保が、登場人物自身の発言によって強化されていく。基盤の劣化を加速する装置としての発言。
ところが、残念ながらストーリーの仕掛けとしてのふらつきを、キャラクターは補正できない。キャラクターにその力がないのだ。彼らは伊藤の投影としての色を強く持ちすぎてしまっていて、その伊藤自身の逡巡や混乱が彼らの自立を妨げてしまっている。つまり、キャラがたってない。
ジョン・ポールがあらゆる根拠の果てに「愛国心」を持ち出すときもそれはとても唐突な印象を与えたし、また反転として主人公が「非国心」とでも呼べるような状況を生み出したときも、小説の仕組みとして理解はできても、登場人物の人格を補強するようなものにはなっていなかった。
いうなれば、小説の骨格が、小説の肉と分離してしまっている。
きっと彼は、骨に肉をなじませている余裕がなかったのだろう。それはアイデアとしてとにかくアウトプットされ、わずかばかり滑らかな表面を与えられただけで、皮膚の下は混とんとしたままどうにか形をなしていた。処女作ということを考えれば、そんなものだろう。
にもかかわらず、私は感情として、彼の小説を好きだと思う。小説としては未熟かもしれないが、彼がアイデアを練り勉強し小説という形にしようとしたものを、私は嫌いにはなれない。まったく冷静な判断ではないけれど(まあ、判断はいつも価値判断であるのだし)。
つまり、彼はこの小説を書きなおすことがもうできない。彼は死んでしまった。そして私は少なからず、その事実からさかのぼって彼の小説を読んだ。私の視線は最初から歪んでいる。
私は彼の小説をよく理解できるとおもう。理解できるから、もっと違う文体を与えたかったし、もっと綺麗にしたいとおもう。ただ、彼の死という事実を前にすると「そうではない」からこそ評価されているともおもう。彼の小説には他の可能性が残されていたのではないかと、私たちは考えたくなるのだ。
未完成であることの完成度。彼は死によって永遠にその完成を放棄せざるをえない。そして私たちは、私たち自身で、彼を補足しなくてはならない。彼のあり得た可能性を私たちは想像し、その想像の中で彼は少なからず価値を与えられ、いま評価されている。
死によって完成されたのが伊藤計劃という作家なのだとしたら、そして彼の唯一の長編が「虐殺器官」という死を主題にしたものなのだとしたら、彼を<死に魅入られた作家>としてアーカイブすることも、あながち間違いじゃないんじゃないかな。


「こうして話しているいまだって、わたしやあなたの意識というのは一定の…こう言ってよければ、クオリティを保っているわけではない。わたしやあなたは、たえず薄まったり濃くなったりしているのです。」(器官、261)
「「わたし」も「意識」も、要するに言葉の定義の問題になったのだ、と。どれだけのモジュールが生きていれば「わたし」なのか、どれくらいのモジュールが連合していれば「意識」なのか。それをまだ社会は決めていないのだ、と。」(器官、262)
「人間の行動を生成する判断系統は、感情によるラインが多くを占めているのです。理性はほとんどの場合、感情が為したことを理由づけするだけです」(器官、263)
「罪から逃れたいのではない。ぼくが恐れているのは逆で、自分にその罪を背負う資格がないという可能性だ。その罪が虚構であるという最悪の真実だ。」(器官、266)
「この殺意がぼくのものでないとしたら。このユダヤ系のカウンセラーと数種類の化学物質がコーディネートした、脳の状態によるものでしかないのだとしたら。この生存への意志は本物なのだろうか。ぼくはいまここにこうやって生きている。そんな喜びは嘘っぱちなのだろうか。」(器官、267)
「自由とは、選ぶことができるということだ。できることの可能性を捨てて、それを「わたし」の名のもとに選択するということだ。」(器官、354)