ミュンヘン三日目


《中心街を観光する》


ホテルを早々にチェックアウト。とてもいい天気で、暑いくらい。ハイデルベルクでは25度になるとか。
お手洗い休憩をかねて近くのカフェへ入る。店員さんが非常に感じが良くてうれしい。チップの量について話しながら中心街へ向かう。


シナゴーグの跡地があるというので行ったのだが、新しい建物が建っていて、ひとつは美術館になっていた。ただ、収蔵作品や展示そのものにはあまり面白みがなさそうだったので、みることはしなかった。


そういえば、昨晩はチャンピオンズリーグ勝戦で、バイエルン・ミュンヘンインテルの試合が行われたのだそうだ。結果的にバイエルン・ミュンヘンは0−2で負けてしまったそうだが、今日はそのせいか朝からビアホールやカフェで飲んだくれるファン、新市庁舎前でたむろってるファンを多く見かける。暴れてる人はいなかったが、街中が赤と黒のユニフォームであふれかえっていた。


その喧騒を抜けて裏通りのイタリア料理屋で昼食。何の変哲もないニョッキとカルボナーラ。だけど何の変哲もないということが嬉しい。日本のイタリア料理店で食べるのとなんら変わりなかった。食べている間に、日差しが高くなって暑いくらいになってきていた。


レジデンツの倦怠感》


午後からは、17〜18世紀の状態が残されているという王宮(Residenz)を見に行くことに。
道中騎馬警察を見るなどした。




敷地の中で軽く迷うもどうにか到着。美術館、コレクション、劇場の3館共通券で11ユーロ。コレクションではアールヌーボーの源泉を見、美術館では絢爛豪華な装飾の嵐に襲われた。これがひどくて、半分を過ぎたころから食傷気味に。私たちに王宮暮らしは無理だね、とオットが言うのを素直に聞いていた。





王宮美術を見ることで、アール・ヌーボーが17世紀から続く装飾の歴史のレプリカ、もしくはリバイバルであることをはっきりと認識する。流れの中に位置しつつ、それはもはや、最後の吐息、もしくは劣化した複製品、行きすぎた俗悪趣味、懐古趣味でしかない。自分がアール・ヌーボー的なものに惹かれつつ同時に嫌悪にも傾くのはなぜかとしばしば考えてきたのだが、それはもはや時代遅れになりつつあるものの断末魔を聞かされているようで居心地が悪かったからなのだとわかった。往時の技術と背景は失われたが、ただ装飾の美しさのみが、あるいは形態のみが模倣されていくことの虚しさが、アール・ヌーボーにはまとわりついてはがれないのだ。終わりを迎えて行くものの、最後のあがき。必要とはされていないもの。つまり、その装飾によって支えるべきもの、王の威光も、権力も、富も、君主制というシステムそのものもすでに存在しない。にもかかわらず、装飾だけが緻密に再現されなぞられ、形として残っていく。もともとあった俗悪さが権力という後ろ盾を失ってのさばり始めるのだ。グロテスクさそのものが全面に堂々と現れてくる。絵画の辿ったのとはまた別の仕方で、装飾は崩壊していったのだ。
解体された装飾は、やがて機能(道具としての用途という意味での)との兼ね合いの中で再び現れてくる。それがアール・ヌーボーのもつ形態と全く異なっていたというのは、だから自然なことなのかもしれない。もはや、アール・ヌーボー式のグロテスクな装飾が必要とされた頃とは、前提となる機能、装飾を必要としている機能そのものが異なってしまっているからだ。今やそのパラダイムは道具としての機能に落ち着いている。

さて、この後劇場へ見学に。


ここを出たのが15時。列車は15:41発。すこし急ぎ目に中央駅へもどり水を買って乗車。10分遅れで出発。途中何度も停車して、結局地元の駅に着いたのは20時近かった。途中、車窓から見えた菜の花畑がとてもきれいだった。

ハイデルベルクはもう夏の陽気。いよいよ6月に入っていく。