最後のユニコーン

『最後のユニコーン』
ピーター・S・ビーグル著、鏡明訳、早川書房、1979


ようやく読んだ。午後、まだ明るいときから読み始めて、文字が読みにくいのに気がついて明かりをつけ(本当はハガード王のようにつけたくなかったのだが)、小さなスタンドの下で貪るように読み続けた。読み終えて、最初にしたことは、二階堂さんのサイトに飛んで、彼女がどこを引用していたのかを知ることだった。どこでもよかったのかもしれない。でも、彼女が執拗に引用していたのは、ユニコーンが人間と分かたれ、元の姿に戻りながらも、人間であることを引きずっている場面だ。ユニコーンが、ではなく、周囲が、それを引きずっている。私はこれを読んで、分かった気にならない方が良い。分かった気になると、決まって間違っているからだ。それに、私は不可避に的を外すだろう。今の私は彼女ではない。だから、私は分からないということだ。私は結局分からなかったが、分からなかったということは、少し私を安心させる。

「仲間たちは、去りました。みんな、自分がやってきた森に散っていきました。一頭ずつ。そして、人間たちには、たとえば、みんなが依然として海の中にいたとしても、それ以上に、その姿を見ることは難しいでしょう。わたしもまた、自分の森に帰るつもりです。けれども、そこで、あるいはそれ以外のどこであっても、満足して生きていけるかどうか、わたしにはわからない。わたしは、人間でした。そして、わたしの内のある部分は、いまだに、人間のままなのです。泣くことも、何かを望むことも死ぬこともできないのに、わたしは、涙と飢え、死の恐怖に満たされているのです。もう、わたしは仲間たちと同じではないのです。後悔することのできるユニコーンなど、生まれたことはないのですから。でも、わたしは後悔することができるのです。わたしは後悔しています」
(ピーター・S・ビーグル『最後のユニコーン』、p.368-369)