名指しと必然性


目下のところ、クリプキの『名指しと必然性』である。
まだ第2講義のあたりでうろうろしている。迷走している。


問題となったのは、私たちは《どこから》この話を見ているのか、ということだ。
クリプキが現実の対象から可能世界を出発させるとき、私たちはクリプキの世界の内側にいるのか、それとも、外側にいるのか。勿論、外側にいるはずなのだ。


だめだ、これじゃぜんぜんわからん…。


クリプキの考える世界のモデル(とかゆうといろんな人に怒られそうである)を、私たちは外側から見ている。
ルイスの考える世界のモデルであっても同様である。
モデルなんだから外側からみてて当然だ。なぜならそれは現実世界の中の対象であって、私たちを覆う現実世界それ自体ではない。私たちはモデルを外から眺めるしかない。
プラモデルの中に入り込んでモビルスーツをコントロールしたりできないのと一緒である(一緒か?)。



ところで、モデルとモデルを比べるということをしているとき、私たちは何を意図しているんだろう。
たぶん、自分の実際の有り様と各々のモデルとを比べているのである。
そういう素朴なことをしている。
現実は現実だ。
もしモデルによって現実がとらえられるとすると、けれど、それは何をとらえたことになるんだろう。
そもそも、現実世界のモデルってなんなんだ。


なんというか、どうもこのあたりで何かがひっかかる。もやもやしている。どう考えたらいいのやら。


可能世界は、現実世界ではないが、可能世界は、現実世界のウチにある。だとすれば世界の外に出る必要などそもそもない。ところで世界ってなんだ。


ふと思いついて広げた本にこんなことが書いてあった。

世界、それはこれこれの事物と並ぶもう一つの事物ではないし、あれこれの事物を容れる器のごときものでもなし、またあれこれの事物を一からげにして作られた一つの集合でもない。それは人間が住むことを可能にする地平、人間の住み家である。また住むとは、当然のことながら、人間が世界に住むのである。最後に、人間は世界に住むことにおいてのみ、人間でありうる。人間の世界への誕生と、世界の世界への招来とは、住むことにおいて、一挙に成就されうるのである。
菅野盾樹『我、ものに遭う 世に住むことの解釈学』p.1)

うーん。