「ヴァーチャルハウス」
ヘルツォーク&ド・ムーロン「ヴァーチャルハウス」
このテキストを載せている本は実は2冊ある。
一冊は『SD』1998年2月号、もう一冊は『InterCommunication』no.24(1998.04)。(他にあれば教えてください。)
SD誌の方は篠原一男との往復書簡のはじまりとしてヘルツォーク&ド・ムーロンから送られてきたもの(署名には1997/12/15とある)を翻訳して載せ、InterCommunication誌では1997年3月20、21日にベルリンで行われたコンペとフォーラムに提出されたテキストを参考にしている模様。どちらにしても、元の原稿は同じものである。
従って、初出は前述のベルリンでのコンペであり、翻訳以前のものは『Any』19,20号(1997)(http://www.anycorp.com/)に収録されている。その後ヘルツォーク&ド・ムーロンがSD誌の往復書簡のために割く時間がなかったためこちらを使い回した(と自分自身で書いている)。ちなみに彼らがコンペに提出するために作ったサイトはここ(http://virtualhouse.ch/)。
さて、テキストが書かれた時期としては丁度日本でH&deMの展覧会*1が行われていたときと重なる。こちらの展覧会が「知覚への探求」と題されていることからも分かるように、彼らの知覚への関心は並々ならぬものがあることは、もうご存じだろう。このテキストでも、彼らの「物質性-非物質性」への関心に言及されていて面白いので、いろいろ抜き書きしてみることにする。
SD誌掲載の書簡で、前置きにこんな感じのことを書いている。
私たちが個人的に好感を持ったのは伊東豊雄氏の作品で、これは記憶というものに基づく実に詩的な作品でした*2。私たちの案も同じく記憶──いくつかのイメージの記憶──に基づく作品なのですが、この記憶は集団的でグローバルな一種のライブラリーのようなものを作り出すものなのです。
建物が記憶と関連するという話は、Natural History (id:asukakyoko:20031118)でも言及していた。
で、その後
私たちのヴァーチャル・ハウスについてのテクストでは、物質性と非物質性の問題も取り上げていて、こちらはここ数年来、私たちの探求の中心課題と言ってもいいようなものです。
と、声明を発表。このあと、「ヴァーチャルハウス」というテキストに入る。
プリツカー賞受賞時のコメントで、ジャック・ヘルツォークはアルド・ロッシの考え方についてのべているが、そこに酷似している文章がある。
ヴァーチャル世界とは、純粋な想像力の世界です。しかし、その出発点となるのは常に物質的世界、つまり物理的世界であり、これが私たちの実存の基礎の部分を形作っているのです。
これは逆説と言うべきでしょうか。物質世界は非物質世界を決定します。
ここまでバリバリにそっくりだと、むしろプリツカー賞受賞時のコメントで「ロッシ氏の…」と言ってるところはロッシの考え方なのではなく、単にロッシの影響下にある、という程度の意味しかなくて、ほとんどH&deMの思想そのものなのかもしれない。そう思える部分はまだまだある。
思考やイメージという非物質的世界は、物質世界を存続させるための生存戦略なのです。私たちは徒らに安逸さや夢や漠然たる情緒に身を任せているわけではありません。思考やイメージという非物質的世界は物質世界、つまり物理的世界の欠くべからざる存在基盤なのです。純粋な想像力の世界からもたらされるイメージと思考による支持構造がなければ、物質世界を構成するたった1個の原子といえども知覚されることはなく、てんでバラバラの、行方定まらぬ存在になってしまうことでしょう。
ここなんてモロですね。
そんな彼らは「物質なき精神世界」を手厳しく批判する。
人間は常に物質の重荷を厄介払いして、純粋な精神の世界に逃げ込みたいと夢見てきました。その夢は、何世紀にも渡る思想史の流れの中でさまざまな形をとって現れました。情報時代に入ると、その夢はかつてないほどに切実な意味を帯びるように思われます。理想世界とは、すなわち物質なき世界なのです。
さてでは建築とはどう関わるのかというと…
これは世迷い言でしょうか。確かに逆説的ではあります。なぜなら、特に建築では、ヴァーチャル世界は、物理世界から独立して超然としていることはできないからです。建築におけるあらゆるヴァーチャル・イメージは物質を含んでいます。物質に従属しているということは、むしろ建築の本質そのもの──でもあり、また実質上(ヴァーチャル)の可能性──なのです。
こうして彼らは「物質的条件の境界領域」を探求しようとし始める。
するとそこに通常は見逃されているものがしばしば明るみに出されてくるのです。たとえば、何が重さを具現化しているのか、何が明るさを構成するものなのか、何が壁なのか、何が光か…(中略)…これこそまさに私たちが到達したいと願うレベル、私たちの建築において体現したいと思うレベル、すなわち知覚の精神的レベルというものなのです。
このレベルに到達するため、彼らは物質に固執するのだと言う。
このあと彼らは「ヴァーチャルハウス」に関して行ってきたことが、自分たちの今までのプロジェクトと何ら変わりなかったという発見を述べる。
私たちのすべてのプロジェクトは…(中略)…すなわち、世界に対してどこに、そしていかにという問いを促すのです。
彼らにとっての「ヴァーチャル」は対象の物質性-非物質性ではなく、物質として存在する対象の喚起する非物質性に関する事柄なのだ。だから
物質世界の現れというものを問うことが建築家としての私たちを仕事に駆り立てる要因なのです
なんていう言葉が出てきたりするんだろう。
彼らは日本の障子建築やイスラムの壁面、などを取り上げてそこに「洗練され、浄化され、純化された物質」を見て取る。それらは様々な説明によって捉えることができないために、複雑である。物質的特質がその(捉えきれない)非物質的価値の表現となり、逆に非物質的特性が物質的存続を保証しているために。
現在、そうやって「純化された物質」が「伝統」によって作り出されることはないけれど、H&deMはそれを「情報」の助けによって生み出されると考える。
私たちの仕事においては、常に映像がこの情報を運ぶ乗り物(vhiracle)ないしはメッセンジャーとして、もっとも重要な存在であり続けています。
これが書かれたのが1997年なのだから、当然ここには<エバースヴァルデ高等技術学校図書館>や<リコラ社倉庫>なんかが含まれているのだろう。
あと、
私たちが映像に関心を持つのは、映像が開かれたものだからです。映像は概念的な言葉を語りません。むしろ普遍的な言葉を語るがゆえに想像力の領域へ直に踏み込むことができるのです。
こんなことを言ってるけど、本当かなぁ。私はこのことに関してはちょっと懐疑的だ。映像だって、言葉と同じ作用を持つことがあると思うんだけど。如何なモノか。
最後に、これは私にとってとても心強い一言。
「私たちは引用には興味がありません。」
私がちょっと前に書いたプラダ論は、まさにこの結論を引き出すために頑張ったと言ってもいい。良かった、間違った方向に行ってなくて…。
そして
「たぶん映像は単なるアイデアの触媒なのでしょう」
これは確かにそうだと思う。彼らはだからわざとそういう「別のアイデア、別の建築、別の視覚的瞬間への扉」が開かれるような映像を集めたのだ。同じモノを喚起させようとするのではなく、積極的に違うモノへと移行させていく。留まらず、流れるように。
*1:http://www.tnprobe.com/act/exhi05.html
*2:伊東氏は彼らの参加したコンペに、自らの作品として<ホワイトU>に関する叙述を提出していた