『AXIS』vol.106

『AXIS』vol.106, 2003, pp14-17

株式会社アクシス、¥1,500。
巻頭に、ジャック・ヘルツォークへのインタビュー。こうやってちゃんとジャックなんだかピエールなんだか示してくれないとどうにも埒があかない。基本的に、たぶんインタビューはジャック・ヘルツォークが受けてるはずだから、まぁいいんだけれど。

ところで、この雑誌はなかなか鋭いなぁと思ったのがコレ。

すべてのプロジェクトには全く異なる状況があり、可能性も戦略も全く異なるというそのアプローチからは、表現という意味における作家性だけではない、もう1つのスタイルが見えてくる。

インタビューの前振りなんだけど、私はまさにこれを展開しようとしているので、非常に興味深い。そう、作家という視点からじゃ見えてこないのだ。実際。
 
 
知覚に関するジャック・ヘルツォークの発言。

このプロジェクトは、われわれが今までずっと取り組んできた知覚に関連する問題に首尾一貫して焦点を置いている。眺めること、見ること、見せること、展示すること。そうした知覚プロセスがこの建築プロジェクト自体に関連し、さらに街全体、顧客、通行人、商品に関連してすべてを巻き込んでいく。建築は、単なる物理的な機能を越えて、ファッションとはいったい何なのか、アートとは、ワインとは、人々の社会的な工藤の違いとは…。そういう問いに答える、変化するプラットフォームのようなものになるべきだと思っている。そして、ここでは、都市、建築、インテリア、そしてインストア・テクノロジーのレベルと、あらゆるレベルで人の五感に触れるための仕組みが重なり合って、特別な場所になっていると思う。

かなり戦略的に、知覚に働きかける場をつくり出そうとしていることが窺える。
 
 

伝統的に、そして国際的に、普通ガラスは実際の世界と同じアングル、中と外にあるものを映し出すもので、あちらにあるものとこちらにあるものをはっきり区別し、同じものを映し出している。これを曲面ガラスにすることによって、建物全体はインタラクティブなスクリーンとなり、ショーケースを覗き込むように、中と外でゲームのような瞬間が生み出される。

この発言も面白い。というか、なんだ一生懸命考えてたことが全部言われてしまった…。やっぱり実物生きているうちに批評するのって大変だ。向こうもこちらの言い分を取り込んでどんどん先に進んでいくのだから。
 
 

一方、東京にはわれわれが理解しているパブリック・スペースというものは存在しない、というのが僕の分析だ。あるのは、集中、複合、そして密集。それらがすべてのビルディング・ブロックにわたっている。アーバン・ファブリックの中に、全体性を考える公共の意識というものがほとんどない。まるで公共の力が存在しないかのように…。

『HOME』誌の抜粋(http://d.hatena.ne.jp/asukakyoko/20031120)で同じようなことを言っている、と述べた部分。
 
 

作品を制作してもらうという以上に、彼はディスカッションにおけるチームの一員、ダイアローグのパートナーなんだ。アーティストは何かを認知することに非常に敏感な人たちだからね。

北京のスタジアムのプロジェクトで組んでいる、アーティストアイ・ウェイ・ウェイに対するH&dMの態度。これはそれ以前のトーマス・ルフや、レミ・ゾーク(ザウック?)に対する態度と変わりない。
 
 

1つの表現スタイルを世界中の個々のプロジェクトに当てはめていくことは今や意味がなく、都市の状況、文化的背景、スケール、ロジック…、すべてが異なる状況のなかでは当然ストラテジー(strategy:戦略)も異なってくる。それを導き出して、1つの全く新しいものをつくり出すことこそが、われわれのやり方だと考えている。

もう完全に確立された、彼らのやり方があることが良く分かる。だから逆に、常に迷いながら、手探りで個々の建物を建てていくことになるんだろう。