『スクウォッター 建築×本×アート』

大島哲蔵の批評集。学芸出版社から2000円。

 かなり以前からウェブ上で「SQUATTER」という本屋の存在は知っていて、なんだか面白いことをやっているなぁという感想を抱いてはいたんだけど(今はこの本屋ウェブは閉鎖しているはず)、それと全く同じタイトルの本を偶然見つけて手に取ったもの。
 著者の大島哲蔵氏はもう亡くなっているため、本の出版自体は彼の周辺にいた人々の手になる。
 批評スタイルは自由奔放。いくつか目に留まったものをメモしておく。

 

  • 「建築の芸術的退行」(p14-23)

 冒頭、著者は、ポストモダンにおける現代芸術がいかなる階層からも概念からも全的に補足されない場所へと赴いたのに対し、建築におけるポストモダンが「必然的に」中途半端に終わったことから、建築は「基本的に妥当な位置(ネオモダン)」へと戻ったとする。
 建築とアートの距離、差異、お互いがお互いをどう見るか、各々のアイデンティティの確立に関して。ドナルド・ジャッドの言葉から、建築をアート化したり、アートを建築化したりすることは不可能であり、建築が建築化されることによってのみアート性を獲得する、と主張する。
 建築寄りのアートとして、ポストミニマル、インスタレーション(「類同性よりも両者のズレに着目したい」)。
 ドミニク・ペローからゴードン・マッタ・クラーク(「建築の澱にメスを入れアートの毒杯をあおり若死に」)、フランク・O・ゲイリー、そしてヘルツォーク&ド・ムーロンへ。

ただヘルツォーク&ド・ムーロンの仕事について見方を変えると、いかに視覚認識の条件が複雑化されようと、共働のシステムが洗練されていようと、基本的に古典的な壁面装飾と選ぶところがない──ということも可能だろう

 批評家の系。クレメント・グリーンバーグの怖れ。

彼が一番恐れていたのは、デュシャンアヴァンギャルド主義の再燃、つまり芸術品がレディメイドに浸食されてその区別が消滅することだった。この心配は今やもっと悲惨な現実となって的中し、もはや芸術品らしい外見を保ったアートなど少数派で、むしろそれを識別するために「美術館」や「美術評論家」が必要になっているほどだ。

 ポストモダンにおいて、建築は自ら志願して「商品」になった。背景に写真術の発達。「建築は被写体となることで必ずしもサイトスペシフィックではなくなった」。
 多くの領域を参照する建築。しかしアートは直接参照することをさせず、建築が自分自身を見直す指標となりうる。ジェフ・ウォール、ディヴィッド・ホックニー、ゲハルト・リヒター。
 モダンアートには自らの矛盾をリプレゼンテーションするという可能性が残される。
 女性的身体の空間的な位置、感受性の発露を建築という側面から再定義する必要。また建築とアートの関係について

建築の芸術性の問題を単に「アートピースを効果的に建築空間に取り入れているかどうか」で判断するようなことでは済まされなくなってくる。建築の過剰な抑圧がアート(観念的な価値)への接近となって、早晩はね返ってくるだろう。つまり通り一遍の建築なら簡単に誰でもアレンジ可能な今日、それでも建築家が固有のトポスであり得るとすれば、どこかに超越的な消費不能の原質を保持していなければならない。それが本来の意味でのアートと重なってくる──同時に捌け口でもあるが──ことは言うまでもない。

 そして再びジャッド。「建築は退行し、一部がアートに接近する」。

 

  • 「建築写真のヴァーチャリティ」

 『10+1』誌にて掲載のテキスト。建築の代理イメージとして写真が用いられたという事実。眼の代行装置としての写真、建築写真という分野の成立、そして写真を志向する建築の登場へ。


 まだ途中。もう少し詳しく読んでいくつもり。非常に面白い。