「純粋化への意志」

『10+1』no.20 南泰裕「純粋化への意志」

南は論文の中で「不純な建築の純粋化」を2つの位相において語ろうと試みている。
その1つは、建築は、さまざまに存在する判断水準の序列化や重要度の確定を必要としていること、つまり「建築にとって何がもっとも重要か」と問うことそれ自体が建築という観念のあり方を示している、という位相である。それは建築におけるさまざまな水準を、それぞれ個別的なものとしてはみなさず、一個が重要になるならば、それと反対に排斥されるであろう他の水準もまた存在していなくてはならない、とする考え方である。ある水準が単独で建築を規定する、ということは起こらない。各々の水準(新しさ、ディテール等)が複雑に関連しあっていてこそ(すなわち不純な構成物であってこそ)、建築という観念は成り立つ。
南はそこで柄谷行人のテキストから、

「芸術というものがさまざまな不純さを抑圧することで虚構的な純粋さを成立させているのに対し、建築と映画はその抑圧が困難なために、ファイン・アートに比べて不純であるように見える」

という主張を取り上げる。さらに柄谷はそのテキストの中でカントによるカテゴリー化を取り上げており、

「ある純粋な能力といったものは、逆説的に他の能力を不純化し、ひとまとめにすることによって成立している」

つまり

「芸術が、他の諸事項を包括する(ブラケテイング)ことによって成り立っている主観的な行為であること」

としたようである(私自身が文献をあたっていないため、推測の域を出ない)。
南は柄谷のこの一連の主張を、「建築が建築家という概念と対になっていることとほぼ同値」であると考える。どういうことか。つまり建築がさまざまな人々や条件の関わる複雑な観念であるとしても、「建築をめぐって責任=応答する単独の主体を探し出そうとする眼差し」が存在する限り、あるいは主体的な行為の産物として私たちが建築を見るのである限り(それは建築が不純であることによって生まれる欲望である)、「建築家」という主体が要請されるということである。
 
「建築の純粋化」をめぐるもう1つの位相は、「建築という概念」の「純粋な表現」をめぐる問題である。前述の位相が「純粋化における建築の主体の要請」であったとするならば、こちらは「建築を純粋化する方法における不可能性」という位相であると言える。
何が不可能なのか。端的に言うならば、「概念」を表すことが不可能なのである。当たり前のことかもしれない。もう少し詳しくみてみる。
南が建築における「純粋建築の不可能性」とでも呼ぶべき位相を取り上げる前に参照するのは、20世紀初頭の抽象絵画の履歴である。なぜなら、抽象絵画の辿る足跡が、建築が「純粋建築」へと至る道筋(そしてそこで起こる問題)と等しいと南が考えているからに他ならない。
絵画はそれまで、現実の対象を平面に写し取ったものだった。しかしセザンヌが自然のあらゆる形態を球、円錐、円筒に還元し、それらを基本要素として絵画は出発するべきだとしたところから、抽象絵画が出発する。それは、最初のうちは対象の単純化であり、対象の持つ要素の抽出だったのだが、次第に「ある対象の模写」としての絵画ではなく、「絵画そのもの」として、つまり「非対象の純粋領域」としての絵画のあり方へと突き詰められていく。対象を持たない、平面上の線や面、へと絵画が「還元(レドウクチオン)」されたのである。さらにパウル・クレーは、線や面へと還元された絵画の要素を「絵画」として成り立たせる「構成(コンポジチオン)」が同時に行われていることを指摘し、そこに作家の自意識を見て取る。
その後抽象絵画は実現不可能な概念の描出へと進む。たとえばマレーヴィチのシュプレマティズムが示した「黒の正方形」「白の上の白の正方形」といったものである。しかしながら、これらもやはり「絵画」として成立している以上「描かれて」いる。つまり「概念」の「完全な描出」では決してあり得ない。「白の上の白」は想像可能でありながら、実現は不可能である。それは無意味な概念でしかない。描くことなど不可能である。「絵画」という方法を採っている限り、永遠に不完全なのである。
南は、このように決して描くことができない概念を、絵画は「予示」することによってかろうじて「示す」ことができた、とする。つまりは、確かに完全なる「白の上の白の正方形」を描くことはできないけれども、それを未完成のままに見せることによって、完全な概念を「示す」ことは可能であると考える。南はこれを自覚的に「危機的な隠喩」であると述べている。このことは南の、

「対象を描いたのでもなく、内的なるものを描いたのでもなく、対象という概念をこそ描いていたのだ…(中略)…そこでは描き得ないものを描くことが試されていたのである」

という言葉に端的に表されているだろう。
しかし絵画の「平面性」において辛うじて成り立っていたこの「概念予示機能」は、それが三次元へと至るや否や失われてしまう。南は何故抽象画家たちが三次元的オブジェによって理念の実現を目指したのか、その理由を述べていない。それに当たると思われるのは

「シュプレマティズムによって描かれた絶対ゼロ度としての正方形は、前から見ても、後ろから見ても、横から見ても、つまりはあらゆる方向から見ても正方形と知覚できるような想像的空間を予示していた」

というくだりである。果たしてこのようなことは可能だろうか?不可能である。
つまり平面において予示されていたのは「白の上の白」といった色彩的な概念のみではなく、二次元と三次元の差を乗り越えた「純粋な」形態の概念でもあった。そしてそれ故に、抽象絵画で極限に達した画家たちは、それを「立体」として立ち上げずにはいられなかった、と南の文からは考えられる。これは私の意見だが、そこで「概念予示機能」が失われるということがはっきりとしていながら、なおも三次元の物体へと固執するのは、画家たちが「表現」することにこそ意義を見出していたからではなかったか。予示することで極限へと達してしまった抽象絵画の、新たな可能性を、画家たちは空間の中に見出そうとしたのではないか。南は、この立体化への意志のことを「純粋化への意志」と呼んでいるようにも思われる。それは結局、最初からわかっているように失敗に終わるしかないのだが。

さて、ようやくここまで来て建築、「純粋建築」の不可能性が語られることになる。南の論理はこうである。絵画における純粋化への意志は、対象という概念、実現不可能な想像的空間を「予示」することに辿り着いていた。そして、この純粋化への意志は、三次元においては原理的な機能不全に陥ってしまう。ある概念の空間化は、つねにそこで「概念予示機能」を失わせ、純粋な概念と見た目の物体との落差(違和感)をもたらしてしまうからである。つまり「純粋建築」という概念は、「妻のいる独身者」のようにそれ自体で不可能な概念の代理表記である。

(しかし、概念の「予示」のみで考えるならば、それが平面であろうと空間であろうと、可能性は残されるのではないだろうか?)

南は、建築におけるこうした実現不可能な概念の予示と、実際に建てられる建築との落差(違和感)という問題が、幾度も再発していると考える。そのうち最近のものが「ディコンストラクションの建築」と「ヴァーチャルリアリティの建築」である。
たとえばディコンストラクショニズムの建築家としてザハ・ハディドやダニエル・リベスキンドなどがあげられるが、彼らのドローイングは建てられることを前提とせず、「それ自体として表現としての自律性を帯びていた。」そのドローイングは「新しい概念を予示しているように見えた」のである。しかし散々述べたようにそれは平面性への依拠によってのみ成立する。立体として立ち上がっていないことによって、「ディコンストラクション」という「概念」の表現になり得ていたのである。
南はその後主観的に

「彼らのドローイングが建築へと実体化されたときの激しい落差(違和感)を私はいまも生々しく思い出すことができる」

と述べているが、その点については私も同意見である。それはまさに

「二次元から三次元への移行によって、<概念予示機能>がドラスティックに失効していく過程を見て」

しまったことに他ならない。だが私が分からないのはここで南が突然

「それは建築という形式の、本来的な還元不可能性がもたらしてしまう齟齬だからである」

と言い出すことについてである。この齟齬は、これまでの落差(違和感)とは別物なのだろうか。それとも等しいものとして捉えていいのだろうか。

その疑問はひとまず保留するとして、最終的に南はこれまでの過程を以下のようにまとめる。

  1. 消去──模倣(ミメーシス)と規範(カノン)についての懐疑。対象の除去、もしくは分解。
  2. 還元──表現要素の抽出と検証。表現フレーム自体の限界づけ。
  3. 構成──要素の組み立てと関係化。対象という概念の論理記述。
  4. 予示──平面性(フラットネス)の認知、および<概念予示機能>の遂行。
  5. 構築──立体化によるフレーム廃棄。<概念予示機能>の失効。

(私が疑問を持つのは、予示と構築の間で途切れてしまう<概念予示機能>は果たして本当に失われているのか、ということである。)

結局のところ、南は建築における「純粋化への意志」、つまり「純粋建築」へと至ろうとする意志、概念の完全なる空間化への意志、が不可能であることを認めながらも、この意志の遂行を繰り返すことでしか、建築という形式を建築自身によって輪郭づけることはできないと考える。「見てはならないものを見ようとする欲求の過剰さ」と南は言うが、それは「純粋化への意志」というより「建築という欲求」そのものである。南はここで建築家が何故建てるのか、その思いについて定義したと言うことすらできるかもしれない。それは抽象絵画を描いた画家達が、概念の純粋化を目指すことによって壊滅的打撃を受けたように、「建築」に関わり続ける建築家たちの避けがたい欲求と、「建築」との距離を、描き出したとも言える。
ともあれ、かすかに示される囁きのような「純粋建築」を建築物そのものから見出すことは非常に難しく、それはたいてい物理的影響力の方をより多く持っている。予示されるものを受け取ることすら、もしかするとできなくなりつつあるのかもしれない。だとすれば、純粋建築は建築家たちの間にだけ残されたほんとうに微かな痕跡でしかないのではないだろうか。