『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』

野矢茂樹著。哲学書房より2400円。

 著者の野矢さんが集中講義にいらっしゃると言うので、しっかり読み返してみた。

 私は難解な本を読むのがとことん不得手で、その割に難解なんじゃないかという分野に積極的に関わっているので頭が痛い。ところでこの本は建築と全然関係ないんじゃないかと思っていたんだけど、やっぱり全然関係なかったという代物。ただ、ウィトゲンシュタインという人と、『論理哲学論考』という本はずーっと気になっていて、でも難解らしい、ということで手が出ずにいたのを、この『『論理哲学論考』を読む』を読むことでどうにかしてみようと思い立ったというだけの話。あとは、著者が好きだったということもあるのだけど。

 『論考』(著者がこう略しているのでそれに従ってみる)のミソと著者が考えているのは、世界は「操作」と「名と対象」で出来ているってことで、この明晰な断定は、ややもすると傲慢なのだが、上手い。私にはしっくりときた。
 あと、著者が『論考』をふまえることで提出した「意味の他者」という問題が、日常の生活、生きているこの世界、における他者の把握ということにとって、非常に優れた考えであるように感じられた。留まらない、人間の営みのダイナミズム(?という言い方が許されるんなら)をうまく捉えているように見えたからだ。(見えた、というのはまだ私は正確にそれについて考えていないということ)

 少し長いが引用してみる。

 論理空間の変化を語ることはできない。そしてまた論理空間の変化を示すような語りもありえない。ただ私はある論理空間のもとで語り、その語りにおいてその論理空間のあり方を示し、また新たな論理空間のもとで語り、そこにおいて新たな論理空間のあり方を示す。その語りと示しの運動において、論理空間の変化は示される。それは『論考』が捉えていなかった新たな示しの可能性である。
 『論考』は語りの時間性を確信犯的に無視しようとしていた。しかし、語るとは時間的な営みなのである。論理空間の変化は、ただ時の流れの中においてのみ、示される。それゆえ私はこう言おう。

 語り切れぬものは、語り続けなくてはならない。

 この見事なクライマックスはどうだろう。というのは、まさにこの部分が、私がずっともやもやしながら表現できずにいたものを、見事にスパッと切り取ってくれたのだ。

 もし著者の目論見が外れたとすれば、それは私がウィトゲンシュタインではなく、野矢茂樹という著者の方に興味を持ってしまったということだろう。