自己肯定を喚起する

欲望を喚起するマーケティングが終わって、今は社会的な貢献の中で自分自身の満足を得るためのマーケティングが必要というような話を上司からされております。社会的な存在意義のようなものがないと自己肯定できないって、ずいぶん今の人は大変だなぁというか、むしろ処世術というか、社会の中で役に立ってる自分が素敵とでも思わないとやってられないんだろうとか。
同僚の姪っ子の話がすごくて、欲しいものがないという。高校に入学するのだから、何でもいいからお洋服とか、文房具とか、そういうものをプレゼントしてあげるから言ってごらん、と言っても、そういうのはいい、というのだそうだ。
で、これ、私はすごくわかる。わかるっていうか、私にも少し似たところがあった。
さいころから欲しいものがなくて、ないけどムリにでも何か買ってあげると言われるのでじゃあ本を買ってと言っていたくらいで、むしろ欲しいのは美しい顔であったり、豊満な胸であったり、やせた体であったり、モテる人格であったりしたのだけど、どれも手に入らないから、他に欲しいものなんてなかった。おそらく、欲望は近いところにあるからこそ欲しくなるんであって、どれも遠いな〜って思うと、全然欲しくならない。
ところが少し成長して、やせて、着られるお洋服が増えて、買えるお金ができたら、すごく欲しいものが増えた。あれも、これも、私のためにある、って思えるようになった。お店の前に立っているマネキンと同じ格好ができるということが、すごく嬉しかったのだろうし、楽しみでもあった。
欲しいっていうのは、そこに可能性のある自分がいるから生まれる感情だ。し、そこに想像できる自分がいるから生まれる心の動きだ。ってことは、同僚の姪っ子は、お洋服を着た自分を想像していないんだろうし、それを着て何をしたいということもないのかもしれない。
反対に。旅行には行きたいんだそうだ。お友達とでかけたり、おうちに呼んだり、するのは好き。そのための準備はするし、そのためにはお金を使う。おいしいものを食べにいきたい、素敵な風景を観に行きたい。そのための交通費や食費や宿泊費には、お金を使いたい。でも着ていくのは、そんなに豪華なお洋服じゃなくっていい。お洋服きて素敵な自分じゃなくて、友達と一緒に楽しんでる自分の方が、きっと姪っ子ちゃんはいいのだ。
体験は、その人にしかできない。同じ風景も、同じ食事も、同じ洋服も、同じ時間も、ひとつとして存在しない。成熟した社会の中で、若い人たちはそれに気づいている。自分がどう感じるか、自分が体験したことをどう伝えるか、そしてそれが、他人の目にどう映るか。360度の視界の中で、”繕う”ことも”魅せる”ことも、その感覚とはちょっとちがう。彼らはきっと、安心したいのだ。異なる自己を肯定するために、異なる体験を肯定するために、自己の価値を大切にしながらも、誰かと共有することで納得してもらえるものを好きになる、突出したものではなくあらかじめ評価されたものを好む。
私には、そういうのって、許してもらうことに近い。私はこういう私ですけど、問題ないでしょうか。私はこういう感覚をもち、こういう体験をしている、こういう人間ですけど、OKでしょうか。みんな、そう言ってるように見える。それが常に評価されて、常に変動していく中で、ずっと関係を持ち続けようとおもったら、誰もが納得する理由を探すしかないし、それが利己的なものを排した、社会貢献によって達成される自己肯定なんだろうし、その意味では、今の消費の中心、労働の中心になりつつある人たちはむしろ社会の欲望のようなものをうまく自己と切り離さないと、ちょっとキツいんじゃないかなぁとか、余計なことを考えてしまう。
いや、そもそも、社会なんてないんだろうナって少し感じたりもする。それってなんとなく繋がっているもののレベルで、日常的には、友達や、家族や、同僚という範囲の中で繰り広げられる感情のやりとり、だし、そこにある程度納得できる体験が見出せたら、それ以上のものは求めないという、なんというか、謙虚な暮らし。

残るものなんてない。だから、今体験できることを大切にしたい。そういう、素直さの表れなんだとしたら、すごくわかるけど、先々大変だよなぁ、って、思って、そう思うってことは、やっぱだんだん年取ってきてるのかなぁ。とか、思います。
結論はないけど、喚起すべきなのは自己肯定だっていう話なんだと思います。