『ハッピー・フィート』失われた声と新たな言語について

ジョージ・ミラーがただの動物ミュージカルを撮るわけがないって思ったんだよ…わかってたはずだったのにあいつときたら!予想の斜め上!


悔しいけど面白かったです。歌で互いに通じ合う文化をもっていた皇帝ペンギンたちの中に、歌えない、でも踊ることのできるマンブルが誕生。仲間はずれにされながら仲間のために踊り続ける彼が見たものとは…といった筋。
古きよき歌の文化を育む皇帝ペンギンたちにとって、マンブルは異端児なんです。踊ることしかできないから。皇帝ペンギンたちは、踊ることで相手をひきつける文化なんて知らないから。彼はなんとか自分が生きられる場所を見つけようとする。ベイブが、さまざまな動物たちと言葉でコミュニケートしたように、マンブルは、ダンスでコミュニケートする。
でも、やっぱり皇帝ペンギン界には居場所をもらえない。彼は、どうしたってそれまでの、歌をベースに心を通わせる皇帝ペンギンのルールには乗れない。結局中盤で、マンブルはコミュニティを去るしかない。
マンブルは絶望します。絶望して、やけになった挙句、人間界へたどり着く。人間界には、もちろん言葉は通じないし、歌うことのできないマンブルには、歌を披露することもできない。水族館で見世物になりながら、次第にマンブルは声を失い、心を失っていきます。抜け殻のようになったマンブルに届いたのは、女の子がガラスを叩くコツコツというリズム。
彼は不意に思い出す。彼にとって唯一の言語はダンスだったと。自分の脚が刻むリズムが、唯一自分の気持ちを伝える手段だったということを。
というわけで、マンブルはダンスによって皇帝ペンギン界の危機を救い、新たな文化を根付かせて、自分自身の居場所を見つけることができたわけですが。
高度に発達したコミュニケーション手段が、あるコミュニティの外へはまったく伝わらないものになるという話のようであり、行動したものだけが生き残るという話のようでもあり。あるいは言語そのものが、すでに失われた声となりつつあるのかもしれないと思ってしまったりも。(感情や感覚が旺盛に語られる昨今にあっては、物語はすでに、過去の遺物のような扱いです)ダンス、という非言語的コミュニケーションが、ある意味、種族を超えたコミュニケーション(の幻想)を結実させる本作は、根本的に誤解と偶然で成り立っていて、それが今回はたまたま好意的に受け入れられたけれど、もしかしたら悲劇になっていたかもしれないと思うと、単なるハッピーな話でもないなと感じます
とはいえ感動とは感情のうねりであり、感情はずいぶん長い間力強い物語によってかき立てられてきたのだと思うと、やはりシンプルな物語こそ、感情を動かす力を持っている、と言いたくなるのですが。
いや、でも、ペンギンのミュージカル映画ですから、基本は。ただ、想いの表現とは、ただ言葉によるものでもなく、ただ身振りによるものでもなく、なんらかの行動自体が引き起こされてこそ、存在するということをこれほど鮮やかに描いた映画はそうそうないような気もします。ジョージ・ミラー監督はそういうの、好きなんでしょうね。
ペンギンがかわいいですし、往年の名曲などもあちこちにちりばめられており、ふつうに面白い映画ですので、ご家族でも、カップルでも、おひとりでも、みなさまにおすすめできます。