仕事と意味


仕事をするってなんなのか、最近ずっと考えている。お金を得る手段、生活の手段、人生における意義、人間としての義務、などなど。どれも、納得はできるけど、私にとって仕事が意味すること、とはすこし違う。そのすこしの違いってなんなのか、ずっと困っていたんだけど、たぶん、わかったと思うので少し書いてみたい。


私が、他の人がなにか仕事について書いたり、話したりしているのを聞いて感じる違和感は、仕事、をほかの活動と別のカテゴリーで考えることの違和感なんだと思う。さらに言うと、あたかも「仕事」っていう活動があるかのように見えるのがいやなのだ。「今は、仕事中」「仕事がいやだ」「仕事に行きたくない」。だけど、よく考えると、仕事っていう名前の仕事なんて世界中のどこにも存在していなくって、私たちが日々行うなんらかの活動や行動の総称が「仕事」ってだけじゃないか。だからまず第一に、私は「仕事」っていう言葉があんまり好きじゃないんだろうということ。


それから、そもそもいまの職場で働き始めてから、これまでずっと、私は「仕事」をしている感覚があまりない。「仕事」に対して私が付与している意味は、生産的な活動ということで、その意味で、私はほとんど仕事をしている感覚がない。
なぜか。
組織にとっては、私が行っている活動にはおそらく意味があり、たとえば、他の人の手が回らないことをやっていたり、他の人にできないことをやっていて、それによって、組織全体としての生産性に貢献していることになる。
でも、それって、私という個人が生み出したものではない。私という個人が生んだものに対して対価が支払われているのではなく、私という個人が組織において果たした役割に対して対価が支払われているからだ。
役割は、狭い意味で、何かクリエイティブな活動ではない。いわば、駒だと思う。将棋の駒は、自分が何かを作っているから動いているのではなく、自分が役割を果たしているから動いている。役割を奪われた将棋の駒はただの木の破片でしかないし、そういうわけで、将棋盤のないところや、将棋の駒がなにを意味するのか知らない社会では、もしかしたら、将棋の駒は燃料自体として使われてしまうかもしれない。やんぬるかな。
話がそれたが、駒が関わるクリエイティビティは、おそらく将棋というゲーム自体にあって、駒そのものや、駒の役割にはない。クリエイティブな駒の動きって、駒の役割自体にあるのではなく、それをマネジメントした差し手に依存する。


ここまでの話は、私にとって、仕事っていうのはクリエイティブな活動のことで、現在私がやっているのは、仕事と呼ぶのもおこがましいような、ただの役割を果たすっていう活動なだけだということ。
では、私にとって、そのある種の役割を果たすということがもつ意味ってなんなのか。そもそも意味があるのか。


これは、私の自分自身に対する理解に依存しているのだけど、私は本来クリエイティブな人間ではない。どういうことかというと、ゼロから何かを生み出す、発想するということを得意としてはいないし、ぼーとする時間があったら、延々とぼーっとしてしまう。もし人間社会において私という人間が果たしている役割が、組織に所属しているときと所属していないときで比べられるなら、所属していないときは限りなくゼロに近い。
クリエイティブな人間ではない私が、たとえばお金がいっぱいあったりして何もしなくても暮らしていけるようになったら、たぶんひどいことになる。生きている目的を失うだろうし、鬱になって早晩自殺するかもしれない。ともあれ、何かする理由が私には常に必要で、その理由が、私にとって、いまの「仕事とよぶのもおこがましいような活動」なんだろうということ。


なんだ、あたりまえの結論じゃないか。いや、あたりまえではない。何かにつけて、行動に理由が必要だということが明らかになってしまったので、たいへんやっかいだ。
たとえば、定年退職したら、私はどうしたらいいのか。あるいは、病気で働けなくなったら。宝くじがあたって一生働かなくてもよくなったら。そんなことになったら、たいへん困る。だから、私はほっとくとやすみの日でも「仕事と呼ぶのも以下略」をしている。少なくとも、会社組織にとって意味のある行動だからだ。「仕事以下略」をしていないときは、ゲームしたり、本読んだり、ぼんやりしたり、寝ているだけなので、ほんとうに非生産的で悲しくなる。レジャーにいく趣味もないし、最近はスキーへでかけることも少なくなった。このまま活動を縮小していったら、いずれ植物になれるんじゃないかなと思うほどだ。


それじゃあ、「仕事以下略」以外で生きている目的を探せばいいんじゃないかといわれると、まったくその通りなのだが、それは思った以上に難しい。幸せとか、充実とかは、抽象的過ぎて私には理解できない。何によって、どのように達成できたら充実なのか。そこがはっきりしないことには、どうにもやりきれない。幸せなんて最悪だ。おなかがいっぱいになったら幸せだけど、そんなことを続けていたらあっと言う間に胃が破裂するか極度の肥満になって死んでしまう。パートナーと一緒にいると幸せだけど、それを目的にしたらパートナーが死んだら自殺するしかない。


ことほどさように人生の目的は難しい。もう最近は、人生に目的とか、意味を見出すのをあきらめつつあって、非常に動物的な時期もすぎたので、そろそろ植物になりたい。たぶん、定年退職したら、私は植物になるんだとおもう。仕事は目的としては優秀だけど、仕事だけでは、私はうまく一生を切り抜けることができなさそうなので、そろそろ、もっと大きな目的とか、あるいは、一生続けられる仕事とかを見つけるべきなのかもしれない。とはいえ、そんなことが簡単にできたら、また目的を見失ってしまうので、しばらくはそれで生きていくのがいいのかな、とか考えています。