態度のもんだい


論理は伝えるための方法ではなく、間違わないための方法であり(解釈する主体によって左右されないという意味で)、その意味に限っては、伝えるための方法であると言える。
社会に出てみて驚くのは、会話や主張が、どれほど多くの場合論理的ではない言い方でなされていて、かつ、その方法によってどれほど多くのことが誤解されて伝わっているかということであり、さらに言えば、その誤解を前提とした主張をなしたほうが、多くの人間に伝わる(!)という事実である。


つまり、私たちは多くのことを論理的な方法で伝え合ってはいない。
さらに多くの場合、それは言語ではない方法による。


表情、声のトーン、髪形や服装、呼吸や間合い、天気、場所、”誰が”いうか、”誰に”言うか、どんな方法で言うか、どの”タイミング”で言うか…数え上げればきりがない。
実に多くの情報が会話においてやりとりされており、それに気づき始めると、ただの挨拶でさえめまいがするほどのメッセージであふれている。感受性はそれほど図太くはないので、私は次第にそのメッセージをシンプルなものへとそぎ落とし始める。


今でこそわかるが、私はそういった”余計な”情報が面倒で、論理の世界に入ったのだ。論理の世界でさえあれほど複雑な構造をもちうるのに、この世界の膨大な情報といったら!まったく想像を絶する。けれど、これが世界だ。猥雑で、誤解にあふれており、人々の目配せと、繋がりが多くの力をもつこの膨大なネットワークが。


論理以外の方法が知りたい。私があなたの心を読み、私の言葉があなたを動かす方法を。あるいは、なぜ彼はあれほど上手に人を動かし、一方で、彼女は彼を動かせないのかを。私たちの複雑な関係性を読み解く糸の端を見つけたいと、この頃特に思う。