人と話す

無性に、人と話したくなる時期があるようで、最近、長話ばかりしている。


0.
14年ほど前に、1年だけ同じ職場にいたことのある同い年の友達に会った。彼女は、ずっと一人で生きていくつもりだったのに、あるとき出会った人と一緒に住む気になり、いよいよ本州へ引っ越すと言う。その直前に、声をかけてくれたんだった。特別、ものすごく親しい人ではないのに、なぜかことあるごとに会ったり、声をかけたりするのは、どこか波長が似ているのかもしれない。のんびりしているようで、決断が早く、決めたら絶対に動かさない。だから、ときどき周囲の人間が驚くような決断を静かにしていることがあって、結果がわかってから、みんなびっくりする。今回のことも、3ヶ月くらい前に初めて聞いた。でも、彼女なら大丈夫だろうなと思った。札幌がいいな、と言う彼女と、アイスコーヒーをテラスで飲みながら、札幌は雪があるからね、と言うと、彼女もそうだねと言って笑っていた。あと二週間で、彼女は東京へ行く。


1.
もうかれこれ20年ほどの付き合いになる親友と会うことになった。誰かと会うのはいつも緊張するもんだけど、彼女に会うのは、楽しみでしかない。近況に始まり、仕事のこと、食事のこと、他愛もないことと、3時間ちかく話して話して、たぶんまだ全然話せたんだろうけど、徹夜できるほど若くもないから、ふつうに布団に入って寝て、翌日バス停まで送っていった。なんとなくバス停を離れがたくて、つい「孤独じゃないかい」と聞いてしまったけど、彼女は「全然孤独じゃないよ」と言ってくれて、私はすんなり別れることができたんだった。なんだかなんでもない言葉だけど、彼女の充実っぷりを見られたようで、すごく安心した。次に会うときまでには、私も彼女に負けないキャリアを作ってたいと思う。私は彼女の素直さと繊細な優しさがすごく好きだ。


2.
今の仕事に入るきっかけをつくってくれた上司に久々に会うことができて、飲み会の席なのに、つい仕事のことで話しこんでしまった。彼と話したかったほかの人にはずいぶん悪いことをしてしまったような気がする。(特定の人と話し込んでしまうのは、私の悪い癖だ)年齢はそれほど変わらないのに、びっくりするほどインスピレーションの豊かな人で、何かを生み出すのが本当に好きで仕方ないというタイプ。仕事に対する厳しい目を持ってるという意味で私にとってとても怖い人だったのだが、なんだか、たくさん話を聞いてもらってしまって、解決を示してくれて、怖いなんていうよりただただありがたかった。こんなふうな関係を作れる人って、なかなかいないなと思う。これからも、お世話になるつもりでいる。


3.
それほど親しいとは言えない、でも一方的にファンであった人と、お話した。私はファンだから、彼女を割りと崇拝していたのかもしれない。でも、今日話したのは彼女のすごく大切なことであったり、もろいところであったりして、あ、そうか、彼女のあの声は、もちろん天性のギフトであったかもしれないけれど、彼女であるからこそ生まれた声でもあるんだと、ハッとした。私は、勝手に彼女を偶像化してしまっていたのかもしれないと。だから、というのはヘンだけど、彼女と面と向かって、ゆっくりと、話すことができたのは、とてもいい時間だった。私は誰かの話を聞くとき、あまり自分のことを話さない。でも、彼女が私に自分自身を見せてくれていると感じることで、私は私自身の気持ちの壁をすんなり越えることができた気がする。私を受け入れてもらえたようで、単純に、私は嬉しかった。


誰かと話すというのは、とてもリスキーな行為だと思う。誰かの大切な部分を分けてもらうことだし、自分のことを相手にあげる行為だからだ。本当はすごくスリリングで、楽しくて、面白いことなんだけど、同時に、傷つけるかもしれないし、嫌われてしまうかもしれない。戦いだし、同時に、共感でもある。
哲学をやっていたとき、私は自分の言葉に自分の感情を乗せない訓練をした。主張と、感情とは別物だからだ。そのせいか、どうもときどき私の言葉は鋭すぎるらしい。(そして、私はその言葉が相手を切り刻む様子を見ているのがもしかしたら好きらしい。)だからこそ、大切な相手と話すときは、感情をすごく大切にする。自分の感情も、相手の感情も。そしてたぶん、そういう言葉遣いは、大切な人だけではなく、もっと多くの人にも、届けられるべきものかもしれないと、ようやく気づいてきた。


誰かに届く言葉は、一番身近な人に届く言葉だし、そうでなければ、誰も私の言葉を聞いてくれはしない。届かないからとずさんに使ってばかりいると、感性も、言葉も、すぐにさびていってしまうんだろう。誰かと話すことが私にとって一番嬉しく、恐ろしく、ありがたいのは、他人と私がびっくりするほど違っているにもかかわらず、言葉を介してなんとか繋がっていることができるんだと、気づけることだ。