トゥモロー・ワールドをみました。

グラヴィティの予習ということで、キュアロン監督の前作をば。


いい映画でした!
タルコフスキーを髣髴とさせる長回し、ちりばめられた引用など、個人的に好きな要素が盛りだくさんでしたが、見所は、今もうすでにこんな感じなんじゃないかと思わされるロンドンの描写でしょうか。ロンドンって、どうしていつも世紀末感が漂っているんでしょうかというか、ロンドンを舞台にした終末ものってなんと見栄えがすることか!


V for Vendettaにおける閉塞感と同じものを抱えた世紀末に、希望=奇跡がいかにして可能か、という話。要は奇跡って起こるわけですよ!という話なんですけど、それが淡々と描かれていきます。淡々としているのですが、全員命がけなわけで、その命がけなところが妙に笑えてしまって、いや映画だから笑っていられるわけですが、何かその、真剣さを通り越して笑えてくる領域にまで行っていたのがよかったです。


臨場感という言い方があるとしたら、この映画に当てはまるのはまさにそれ、ただし作られた臨場感である、というところがミソです。日常のまなざしに近いカメラのあり方を模倣しているようで、その実、日常にはこの映画で実現されたようなまなざしはありえない。実際にかなり技巧的なカメラ回しと編集技術を駆使しています。
つまりそこに展開される物語は非常に私たちの日常の視線に近いように見えますし、実際に、自分がそこにいるような気持ちにもさせられます。わざとらしさや誇張がないように見えるし、それゆえすべての流れは自然です。ところが、そんな自然さは、私たちの日常には存在しえない。
映画の可能性とは、ありえないものをありうるものにし、目の前に現して見せることだとしたら、この作品はかなりうまくやったと思いました。


面白いのは、映画を観終えた直後に記憶されている映像がほとんどないこと、ストーリーは頭の中に入っているのに、シーンや画面がまったく思い出せない。長まわしであることで特定の構図を把握できなかったといえばそれまでなのですが、日常の時間の流れというのは常にこうであるという思いも感じます。とはいえ、それも錯覚ですが。


虚構とは、完璧なる虚構であると、現実と区別がつかなくなるものなのかもしれませんね。つまり自分がその中に入り込んでしまうという意味で。面白かったです。