風立ちぬを観てきましたよ。

宮崎駿監督のアニメ映画『風立ちぬ』を観てきました。
《公式サイト》
http://kazetachinu.jp/


零戦を設計した技師の話だという前知識と、宮崎監督が変態であるという前知識と、庵野の演技がひどいという前知識のみで観にいきました。


結果、映画として普通に楽しめる良作でしたが、かといってハッピーなだけではない物語だと思いました。


まあ宮崎さんが変態なのは前からなのでそこはまったく気になりませんでしたし、声優が棒読みなのも毎度のことですから私にとっては特にマイナスではありませんでした。そういうのが気になる人には楽しめない映画なのかもしれません。
というわけで、内容は映画を観たらわかる話なので、以下は私が宮崎監督バリの妄想にて連想したつれづれなる文章ですので、内容とはあまり関係ありません。

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まず感じたのは、限られた資源の中でなしうる最善のことをする、というのがいかに労多くして実り少ないものなのかを見せ付けられるようだったということ。高揚感を感じながらも、世界は何か別のところで動いているのだなと思わざるを得ない映画でした。


確かにその時々で私たちは最善を尽くしますし、それが何らかの成果には結びつきます。けれど、そうした小さな努力は、より大きな時代の流れ、戦争や経済の流れによって簡単に押しつぶされたり、持ち上げられたりする。ではいったいなんのために一生懸命勉強をし、技術を身につけて生きようとしているのか。


それはたとえば日本、という国のためなのかもしれませんし、会社という組織のためなのかもしれません。妻や家族という大切なひとのためなのかもしれません。しかし、おそらくいずれもそういうモノとしてのみ存在しているわけではありません。いずれも、私たち自身がそれに加担し、作り上げている幻想でもあるわけです。


ただ、たとえ何かのために生きるのだとしても、それは真剣に生きないという理由にはならないはずです。幻想は私たちから生まれるものですが、同時に私たちを食いつくそうとするものです。私たちはおそらく必死になって、幻想の先を行かねばなりません。夢が私たちをひっぱるのではなく、私たち自身が夢をひっぱらなくてはならない。


人の死は、ひとつの幻想の死ですし、その人が格闘してきた現実の死です。多くの人が死ぬ戦争はまた、巨大な悪夢だと私は思いますし、その悪夢を抜け出そうとするなら、より強力な幻想に加担するしかないはずです。
生命が瞬間しかないものだからこそ、その生命が見出す幻想は目にも鮮やかに現実を彩っていきます。私たちは現実の中で幻想を共有しながら、互いの幻想に加担しあい、そのために生きようとしている。


確固たる意味のようなものを見出そうとすればするほど、私たちはきっと無気力になり、動けなくなっていくでしょう。私たちは自分が加担する幻想を見出す必要があります。そしてたぶん、そういうものをもって、夢と言うんだと思います。


私たちはいずれにしろ、いつも夢の中を歩いているに過ぎないのかもしれません。この人生もまた、一夜の夢に過ぎないのかもしれません。


今回の映画を見終えて思うのは、そんな儚いことばかりでした。