狂気のはなし

昨日の補足になるのですが、狂気は理由がないから狂気と書きましたが、正確にはすこし違うとおもいます。
狂気として扱われる本人にはれっきとした理由があるのだけれど、それを他の人が理解できないという方が正しいような。


ルールのこちら側とあちら側とは異なる世界になっており、バットマンはそこに引かれた線を越えることができません。
ところが、ジョーカーにとってはその線自体が存在していない。彼にとっては秩序そのものが異世界であり、彼の世界とはすなわち混沌そのものということになります。


マフィアにしろ、汚職警官にしろ、バットマンにしろ、法という前提の下で線引きされている存在なのですが、ジョーカーはそれらすべてを無に帰してしまう。(ゆえに彼のシンボルはジョーカーなのですが)


とすると、ジョーカーの不気味さというのは、われわれの世界では決して悪とも善とも言えない存在であるという点で、解釈不能な存在だし、理解不能な存在であり、「法や力でやっつける」ことが原理的に不可能であるということに根がある。


もしこういう設定でいくとなると、バットマンはジョーカーと接触することで、自分自身の根源的な暴力衝動だとか、エゴ、それ以上に法治国家と無法地帯というものとは別の、完全なる理解不能=狂気に向き合うことになるはず。


で、いざそれをバットマンの行動とジョーカーの行動として描こうとすると、どうなるか。


まずバットマン的にはジョーカーを自分の世界(の理性)で捉えるしかないので、結局殺せないし、理解できないから檻に閉じ込めるとかそういうことしかできない。
バットマンは、ジョーカー的問題を解決できないわけです。
もし解決しようとするのであれば、バットマン自身がジョーカーと同じ混沌レベルまで降りていって、「一線を越える」という概念を度外視し、さっくり殺してしまうか、ジョーカーという狂気を完膚なきまでに分析しきるしかないような気がします。それでも理解しきれない部分というのは残るはずなので、ジョーカー的恐怖、不気味さは人々から消えないですし、そうなるとやはりバットマンは敗北するしかない。


それに対して、ジョーカーの行動はどういうものになるのか。実はあまり想像できない。
完全なる理解不能=狂気であるなら、あらゆる価値をすべて別の理性のもとに置くこと、もしくは無意味に帰すこと、がジョーカーの犯罪となるはずなのですが。


少なくとも今回のノーラン版ジョーカーは割りとシンプルなアナーキストでしかなかったような気がします。
つまり、ジョーカーを狂気そのものとして描くには、少し理性的過ぎたという感じ。


悪い、悪くない、が無意味になるような地点を描けたら、ジョーカーっていう存在が一気に生きてくるのではないかと思うんですが、それって、映画でできることなのかなというのはよくわからないです。


※追記
思い直したのですが、ジョーカーを混沌として描こうとするから、結果的にアナーキストとしてしか描けないのではないかと。
むしろ同じ法を完全に守っている存在でありながら、まったく異なる理性をもつ存在として描いた方が、狂気そのものが際立つ気がします。
あるいはむしろ、99%までは同じなのに、1%が完全に違うということが描けたら、非常に不気味かもしれない。


※さらに追記
結局ビギンズとダークナイトの一番の違いは、提示された問題をバットマンが、バットマンなりのやり方で解決できたかどうかです。どうもダークナイトはうやむやのまま逃げた感が…このあとどうなるんだろう…。