記憶と過去と現実、ロベール・ドアノーとマルセル・プルースト、個人的な思い出

執筆のスタイルをすこし変えた。
和式に、というと便器のようだが、ダイニングテーブルを片付けたあとにPCを移動してきてものを書くことにしたのだ。
場所に置くものによって機能を変えるというのは小さな和室に住まうひとの工夫だったわけだけれど、区切りをつけることもできて案外よいものだ。


というのはさておき。


とある晴れた木曜の午後(つまり今日)、懐かしい美術館を訪れた。ずっと身近にあり、当たり前の存在だったもののところへ時を経て戻るという感覚は、どこかしら甘い。


あふれるようなノスタルジーに取り巻かれたかというとそうでもなく、過去に見た映像が繰り返し立ち現れては消えていった。ただその感触が、今のものなのか過去のものなのかが少しあいまいだっただけで。



おりしもナボコフプルースト評を読んでいて、次第に現実と幻影の行間へ取り込まれていくような気分さえ覚えた。訪れた美術館で行われていたのは写真展だった。
写真というのもまた、過去からのまなざしと言われる(バルトを持ち出すまでもなく)。私たちは一枚の写真に懐かしい人や風景を見、情景を見、その人にしか知りえない秘密を見る。



秘密、ロベール・ドアノーの写真の中にもまた撮影者と被撮影者にしか知りえない秘密があったという。それゆえ彼の写真は過去というよりもむしろある種の想像であり、私たちが本来写真に対して見出したかもしれないノスタルジーの先取りである。
だから、とは言わない。ただ私は彼の写真の前で立ち止まるしかなかった。写真の奥へ入りその写真を撮影した時間が共有したはずの空間へと旅立つことができなかった(ドアノーの言葉にははっきり旅立ちとあるのに)。


確かにドアノーの写真は美しい構図とピントで構成されていた。視覚的な美しさ。
退屈で、退屈で、仕方なかった。私はドアノーではないし、また私はドアノーの想像を共有できる何かを持っていなかった。ドアノーの親愛なる手つきを感じ取ることも、人々の親愛なるまなざしを見出すことも、私にはできなかった。画面の前に取り残されたようでひどく惨めでもあった。


過去がない。歴史というものをひどく軽視してきたし、今もまだしっかり敬意を払っているとは言いがたい。自分自身においてもそうであるのだから、いわんや、他者においてをや。
ドアノーの写真は非常にポップだったとも言える。あらゆる人の、なんらかの過去へ通じる扉。今日ポップであるものが強い共感や快感を呼び起こすものであるとするなら、私だけがそこから排除されている。彼の写真は私の過去へ通じる窓ではなかった。


過去は徐々に細切れになり幻影と幻影の間にかすかに見出されるものになっていく。


六花文庫は美しい蔦で覆われた古い建物だが、そこに受け継がれている信念は、50年前から変わらない。その決断がなにによって下されたのか私はよく知らない。ただ一人の司書の話を聞くうちに、その信念がいかに深くひとりひとりに根付き、実現されているのかを知り、ひどくうらやましかった。彼らはみな過去を共有しているのだと思った。


いや、過去の共有というよりは、信じられた何かの共有。だから変わらずにあり、過去や現在とも関わりなく、未来も同じ形で存在し続ける。




現在にある肉体が過去を幻影のように旅する。煌くプリズムのように、様々な視線にさらされたイメージをなぞる行為。グロテスクで、儚い。そして甘く、退屈だ。ヴォネガットの描いた四次元的存在者も、そうしたものだったのだろうか。それともすべてはちらつく太陽の光の中で見た、ただの幻だったんだろうか。




そして現実は、幻影の狭間から腕を伸ばし、明日の朝の目覚ましをセットする。


私の現実とはいつも、幻影の胸元に浴びせられる冷や水であり、冷笑をたたえた教師である。けれど教師は常に揺らいでいる。幻影の胸元はとても魅力的なので。




ナボコフの文学講義 下 (河出文庫)

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