私がアンディを好きなワケ

唐突だが自転車の話をしよう。
自転車選手で誰が好き?と聞かれたら、迷わずに出てくる名前は死んでしまった人ならパンターニ、生きている人ならヴィノクロフ、そしてアンディ・シュレク、と続くと思う。
パンターニについては、とにかく走っている姿がカッコイイ!と思った。生きているときにレースを見たことはないのだが、山を登っているシーンをyoutubeで初めてみて、すっかり好きになってしまった。
ヴィノクロフは、最初に自転車レースを見始めた2007年に、ツールを失格になってしまった選手としてまず記憶に残った。山岳をたった一人で走り続ける姿を見て、なんて強い人なんだろうと思い、その後の発覚だったので心底がっかりした。でも、彼がカムバックしてからそのイケイケな走りに感嘆し、今生きている選手の中で一番好きな選手になった。現在骨折療養中だが引退の噂はどうなるのやら…。


さて、アンディについては、実はいまだになぜ好きなのかよくわからない。実際ときどき、好きなのかどうかもあやしい。好きというか、つい目を引かれる選手、と言った方がいいかもしれない。私が自転車レースを見始めた頃、彼はCSC(現・サクソバンク)というチームで走っていた。とても若く、目立ち、兄と同じスタイルで、かつ兄より優秀らしいということだった。すぐに期待されている選手だとわかった。期待通り、彼はその後立て続けに三度ツールの新人賞を獲った。そのうちの二度は、コンタドールのすぐ下の順位、二位で終えている。
アンディの周囲には、いつもコントロールされた雰囲気がある。さまざまな幕が張り巡らされ、私たちに届くのはそれらのフィルタを通過したものだけ。アイドルが露出をコントロールするのに似ている。有名選手は多くのメディアに晒されるから自然とそうなっていくのだろうが、それにしても、このコントロールされている感は他にはないものだ。
おそらく、アンディ自身はふつうの人なのだと思う。同年代のコンタドールが、狡猾とも言えるほど自分自身をうまくコントロールしているのに比べて、アンディはむしろ、コントロールを周囲に任せているように見えるからだ。<アンディ>というブランドに何が必要かを周囲が考え、アンディ自身はそれを実現してみせる。ときどきある、奇妙な余裕や間の抜けた発言はそのせいではないかと思っている。自分のことなのに、あまり自分で考えているようには見えないのだ。
そういうお人形アンディが、自分で勝負のために動き出すときがくるんじゃないか。私のアンディに対する期待は、たぶんそれに尽きる。だから最近は、兄フランクの存在が邪魔に感じられてならない。お兄ちゃんと仲良しクラブをやってたんじゃ、状況は変わらないんじゃないの?と思うからだ。(一方で、仲良しクラブが本気のコンタドールに勝てるなら、それはそれで凄いことじゃないかとも思っている。)最後は、みんな一人なのだ。お兄ちゃんはついてこない。その時にアンディはひとりで立っていられるんだろうか。そういう懸念、あらかじめ内包された不安定さがアンディのとる戦略、ひいては周囲が<アンディ>にとらせる戦略にはある。
たった一人きりになったとき、苦労し、死の淵をさまよい、生還し、精神的な強靭さを身に付けた選手は確かに強い。アームストロングしかり、コンタドールしかり。アンディは苦労人、というタイプではない。環境に恵まれた。いつも兄が前を走っていた。でも、私はもしかすると、その楽観的なスタイルに惹かれているのかもしれない、と思うのだ。純粋培養おぼっちゃん然としたアンディが、彼らのような鉄壁の強靭さに対抗しうるのかどうか。ギリギリに追い込まれた精神的なキワに立ったときに、その楽観的なあり方が彼の行動に、勝負に、どう作用するのか、見てみたいのかもしれないと。


アンディの本音というか勝負に対する執着が見えた気がする去年のツール第15ステージ。