結節点から結節点へ

どこかの部分で触れあっていたということは確かで、それが誰かもわかっているが、今ではもうその繋がりはなくなってしまったときに、私は一抹の寂しさを感じる。それはきっと、なるべくしてなったのだろう(だいたいは、私のせいで)と思い、当然の結末だと思う。私は望まれていないことを知り、手を放す。
一方で、あるとき強く強く繋がっていたということを忘れられずに、今では相当微かになってしまった繋がりを手掛かりに、どうにかその強い繋がりを取り戻そうとすることもある。たいてい、そういう努力は無駄に終わる。断絶は決定的で、修復は崩壊に常に追い越されていく。
たったひとつの些細なきっかけで、元に戻れなくなることもある。それは本当に些細なことで、見た目にはどこが変わったのかわからないくらいの傷だ。でも、当事者には常に、はっきりとわかっている。その断裂がもう永遠に修復しないだろうということが。
小さな出来事の連続、小さな繋がりの連続が、大きな流れを形作っているということに私はときどき気づかない。そして何かが起こってしまってから、慌てて繋がりを辿りなおして、ああ、あのときだと思うのだが、もう遅い。その結節点は永久に過去になって、私は次の結節点に移っていくしかない。今ではそれに強い後悔を抱くことも、焦燥を抱くことも、希望を抱くこともない。ただそういうものだと思うだけで。ただこの繋がりからあの繋がりへ、移動していくだけで。


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余談。「結節点から結節点へ」はクリプキNaming and Necessityにおける一節「from link to link as if by a chain(p.91, 原書)」から拝借した。訳出は「結節点から結節点へとあたかも鎖のように(p.108, 邦訳)」。鎖というと重たいじゃらじゃらしたものが思い浮かぶのだが、ここではむしろ網の目のようなものが想定されているんだろうと解釈している。網の目の絡まっているところ、環と環が接触しているところがlinkで、それらがずらずらと連なって行く様子がchainにたとえられている。連続するという意味では「chain reaction」というと連鎖反応という意味。そういえば、その昔キアヌ・リーブス主演の同名映画がありました。