トラウマチック・メモリー

対象から最も遠いところから話す癖はどこからきたのか、というのは大学を出てから気になっていた。何かについて語る時に、極端な抽象化をするようになったのはなぜだろうと。
もちろん専攻がそうだというのは事実だが、それ以前になにか、本質や抽象的なものを志向するきっかけがあったはずだと考えていたのだ。
昨日の朝、偶然その答えが見つかった。


実は十年以上前に、ふとしたきっかけから自己啓発セミナーの勧誘に取り囲まれたことがある。カフェで五人ほどの会員に周りを固められて、さんざん「勧誘してる友達がかわいそう」だとか「話を聞く時の態度が悪い」だとか「何かに真剣になる人を侮辱するのはよくない」といった言い方で責め立てられ、人格を否定されたあげく、私の話し方について「あなたはよく「たとえば」って言うけど、全然わかりやすくなっていない」と非難され、最終的に「あなたが何を考えているのかまったくわからない」と言われたのだ。ショックだった。私は例示は分かりやすくするためのもっとも手っ取り早い手段だと信じていた。それが私個人の人格と一緒に頭から否定された。
振り返るとどうもそれ以降、私は自分の正しさと、提示する例やたとえ話に一切自信が持てなくなったらしい。以来、高度に抽象化された原理や原則の正しさだけを信頼し、たとえそれが伝わらないとしても、私は間違っていないということを誇示して見せるためだけに、論理を使った。私が考えているか、考えていないかは問題ではない。私の思考が問題なのではない。問題は、提示された命題とそれを駆動する原理原則にのみ存在する。


間違いだった、と今では思う。
私は例示の威力をもっと正当に評価しないといけないし、比喩のジャンプをもっと自由に使うべきなんだろう。そして、私自身の意見というものにも、じっくり向き合っていくべきだ。命題は、それ自体として真偽があるとしても、なお、それを口にした誰かがいなくちゃならない。
恐れることはないのだ。誰もそれを止めたりはしていない。そう、誰も止めていなかった。勝手に諦めて、勝手に封印し、勝手に方向転換しただけで。