外国語、それから話すことと書くことについて


会話は英語のみ、というお茶会に行く。英語話者一人と日本人二人、ひたすら英語、英語、英語。
気づいたことが、ふたつある。
一、会話は、何かを主張しあうことより、やりとりをしあうことに重きがある。
二、私は、もともと会話において何かを主張することが少ない。


一について。
会話の中では、自分の考えを単体でぽんと提示するより、相手の言葉を引き受けて、それを言い換えたり、付け足したりすることが多い。相手の言葉の理解と、自分の言葉の提示が混ざり合っているのだ。
だから、話題、という言い方は、面白い。会話を成立させるのは、個々の主張ではなくて、むしろ話題だ。生活のこと、天候のこと、趣味のこと。それから、知りたいという興味。興味から発される質問。文法的に間違ったことを言っても、「それってこういうことでしょ?」と相手が補足してくれる。その言葉だけでは絶対にわからないだろうことが、相手に伝わる。不思議だし、面白い。


二について。
よく話す人は、好奇心が旺盛だ。知りたい事がたくさんある。これはどうなっているの、あれはどうなっているの。好奇心の元は、自分がそこにいたときに何が起こるかという想像だと思う。よく話す人は、話しながらその内容を理解し、そこから可能性を膨らませ、いろいろな想定の中で疑問に思ったことを即座に口に出すことができる。
英語ということもあるが、私はそういう理解が遅いほうだと思う。自分で話すのもゆっくりだ。むしろ人が話すのを聞いていて、後からあれはどういう意味だったのだろうとか、あのときはこう言ったほうがよかったのかしらと考えることが多い。自分が話題に参加しているという意識が希薄なのかもしれない。眺めているほうが面白いせいもある。眺める態勢になっているときに、不意に「お前はどうなのか」と言われると困惑する。これは、英語でも日本語でもそうだ。どうなのかと言われても、どうもしない。その時は、何も考えていないからだ。そもそも話題に参加していないので、聞き流している状態に近い。講演を傍聴しているような感じだ。会話が面白いのは、そういう状態にずっといられないということだと思う。自分を常に受け入れ可能な状態にしておくということは、常に話題の中に身を投じていなくてはならないということだ。そう意識して、なるべく話題を自分のものと引きうけて見ると、不思議なことに、話したいことがでてくる。聞いてみたいこと、質問したいことがでてくる。ああ、これが会話に参加するということなのかと思う。


話し言葉と書き言葉について。
日本語のやりとりだと、なんとなくわかったと思うことが多くて、特別意識しないことも、外国語だと意識せざるをえない。外国語を話してから再び日本語で話そうとすると、今度は日本語でいかに意味のないことばかり言っているか気づく。私は誰かと、言葉でやりとりをしているわけではないのだと気づく。むしろ、身振りや背景となる知識によって相手の言葉や動きを理解している。話し言葉は、そうして補うことができる。同じ言葉でも、言ったとき、言われたときの相手の状態、声の色、表情、会話の流れ、が異なる。それぞれが有益な情報で、理解を手助けする。
書き言葉には、それがない。それなのに、文字として残る。だから書き言葉においては、誤解を極力避けようとするなら、むしろ基本的で正確な文法と論理こそ理解の手助けになる。文字が履歴として残り、後の言葉の理解を助ける。話し言葉における声音や雰囲気や会話の流れが、書き言葉では、明確な言葉の羅列になる。それでもなお取りこぼされる行間さえある。言葉は完璧じゃない。残るのは言葉だけなのに、言葉は完全に言い表せない。
ツイッターでのやりとりが難しいのは、話し言葉なのに文脈がないからだろう。だから、もし明確な意図と目的があって発言するなら、文脈を自分で補足するか、最初から発言の下地になる明確な文脈を作り上げておく必要がある。そうでなければ、言葉だけを取られて全然違う文脈の中で再生されてしまうだろう。とはいえ、力のある言葉というのも存在する。それは文脈や時間や年代や性別を跳び越えて、何度も何度も再生される。私たちはその言葉を再解釈し、読みとり直し、何度も何度も誤解し、何度も何度も訂正し、何度も何度も繰り返す。
言葉が完璧じゃないのなら、私たちは、言葉にならないものを言葉で扱うのを止めるべきだろうか。それとも、それでもなお、それを言葉で表そうとし続けることにこそ、言葉を使う意義があるのだろうか。私にはまだよくわからない。はっきり答えを出せるほど真剣に言葉を扱ってこなかった。でも、私は話し続けると思う。書き続けると思う。それなら私はきっと、希望として後者を取りたいのだ。