幾年月も共に歩まばそれが道になるのです。

相変わらず小説ばかり書いている。小説の可能性という壮大なことを考えたり、小説の本質ということを考えたりしている。小説が何かを物語ることなら、そこには舞台があり装置があり人物たちがいるのだということにようやく思い至ったりしている。だいたいにおいてゆっくりなのだ。人生もどうやら15年くらい遅れている。ようやく脱・思春期したようだ。
思春期を脱したら大人になるのかと思ったら、どういうわけか幼児化している。とにかく好き勝手やっている。好き勝手やらせてくれている周囲の人々はさぞ迷惑なことだろうが、それでも黙って見てくれている。ありがたい話だ。あっちの端からこっちの端までぐらぐらふらつきながらも、ようやく進路が定まってきたような気もするし、そうでもない気もする。齢31にしてそれほど何かを悟れるような気もしないので、まあしばらくこのままなんだろうという気もする。
世界は美しい。世界は残酷だ。世界は陳腐だ。世界は広く、世界は滑稽だ。いずれの世界を選んでもよろしい。いずれも選ばなくてもよろしい。私の選んだ世界はごくまっとうで平凡な世界だ。私はその世界が好きだし、美しいと思う。熱された石畳や、白く光るテラコッタや、陽光を反射するネッカー川も、吹雪に埋もれる家も、息ができないほど低温の空気の中で髭からつららをたらす父も、泥まみれの手で嬉しそうに野菜を運んでくる母も、やめられないと言いながら煙草を吸う妹も、世界に巣くう亡霊を抹消しようとしているオットも、私の好きな世界の一部だ。それは私の世界だが、同時に彼らの世界でもある。彼らの世界のどこかに、私もいることを願う。
私は世界の手触りを伝えたいのだと思う。私の世界の平凡な手触りを。そういう世界があったことを。それがたとえこれまでに数えきれないほど繰り返されてきた言葉であろうと、やはりもう一度繰り返さずにはいられないのだ。かつてあり、これからもあるだろう平凡な世界のことを描きたいのだ。日常を、日常の中の美しさを、日常の中の醜さを、嘘を、哀れを。


そんなわけで、またひとつ歳をとった。