呪いのようなもの

フラッシュバックの専門的定義が何かはおいておくとして、ある特定のイメージと感情が鮮烈に再現されることがしばしばある。特に、冬の間は。自分の目下の状態とは関係なくやってくるので、たいへん扱いに困る。ここ数日そんな調子で参っていた(そういえばこの間もこんなことを書いた気がする)。
毎年、冬は大変なのだ。特に去年の冬は大変だった。ドイツの暗い冬が終わりを告げようとしており、大阪の冬に近づいてくるにつれ、そのときのことが思い出されて苦しい。そこで決断をした。大阪を思い出すものを、とりあえず遠ざけることにしたのだ。特に、去年よく遊んでもらった友達と、ネット上で一定の距離を置くことにした(ネット上で繋がりをもっていると、地理的な距離はあまり意味をなさないのである)。申し訳ないが、わたくしの安定のために宜しくお願いした次第である。
するとなんだか、ずいぶんと清々しい。去年の冬の思い出は、よほど、重苦しく私を縛っていたらしい。それはもともと、なんということもない、小さな悲しみやさびしさだったのだろうと思う。ところが、時間を経るにつれ、私はそれを大きく大きく、虚実とりまぜて成長させてしまった。自分で自分を、呪いにかけてしまっていたのだ。
別に、ネット上での親交が断たれたからといって、友達でなくなるわけではあるまい。以前定義したものから言えば、慈しみと敬いの気持ちをもって、他者として接することのできる相手が友達だ。いずれ私がこの冬を乗り越えられたなら、また話をできるだろう。少しだけさびしいが、それよりも明るい気持ちの方が強い。それに、連絡を取ろうと思えば、メールだって電話だって、手紙だってあるのだ。なぜ私は、「この繋がりが絶たれたらおしまいだ」と信じ込んでいたのだろうか。ばかみたいである。
というわけで、ここを見ているであろう諸友人方には、とりあえず私は元気であるとお伝えしておく。何か訴えがあればメールや手紙などを送っていただければと思う。私もそうする。そしていずれ帰国したおりには、また集まって飲もうではありませんか。その頃にはきっと、私の呪いも解けているはずでしょうから。