友人のむずかしさ

<友人>という関係について考え続けている。


ひとつ、元彼は友人か。
ひとつ、肉体関係のあった人間を友人とすることは可能か。
ひとつ、どうでもいい話をする相手を友人と呼べるか。
ひとつ、あったことのない人間は友人か。


よくよく考えてみると、わたしには友人と呼べる人間がとても少ない。知人というのはいる。集まって飲む相手というのもいる。同級生もいるし、仕事仲間もいる。でも、私が友人と思っている人間はとても少ないし、相手に友人と思われているかどうかもあやしいところだ。

そもそも、私はどうでもいい話が苦手なのだ。
テンポのいい会話や、会話における役割を演じるということが非常に苦手で、昨今それを克服しようとしているうちに、なんだかちゃんと話のできる友人を培ってくるのを忘れてしまったような気さえする。

だいたいからして、私は人づきあいが苦手なのだった。
自分が面白いと思える話し相手というのはなかなかいないものだし、いたとしても相手に与えられるものがなければ友人にはなれないし、そうじゃなければ定期的に関係をメンテナンスするなんてこともしない。

他人と知り合うきっかけはいろいろあるが、その他人と友人になることはなかなかない。私が友人だ、と言えばそうなるのかもしれないが、しかし、私にはその<友人だ>といえる基準が、いまだによくわかっていない。

誰かを友人だ、と言うことは、相手への責任を少なからず含む言葉だと思う。家族や恋人ではないにしろ、友人だと述べることは、やはりなにかの境界を越えることを意味する。

それは、相手の懐へすこし入りこむということだし、同時に、自分の懐へ相手を少し入れるということだ。

けれど、それと同時に、相手とはやはり切れている。すべてにおいて共同体である恋人や家族とは、やはり違うのだ。それでも、その次に大切な人たちであることには変わりないのだが。

なんだか、このあたりのバランスが難しい。
現在のところ、私にとって友人であるかどうかは、率直に話ができる、相手をだまそうとしたりごまかそうとしたりしないこと、つまり利害関係で結ばれていないこと、思いやれると同時に厳しくあれること、そしてどれだけ時間や距離が離れていても、会えば別れたときと同じように話ができること。
でも、よく考えてみると、これって他人に対して当然の態度なのかもしれない。自分とは違う人間に対して、敬意と思いやりをもって接すること。その少し進んだ関係として、友人というのは成立するのかもしれない。相手と自分が対等な立場で、一人の人間として、話したり、笑ったり、怒ったり時には泣いたりできる関係が、友人なのかもしれない。