性格の話

どうも、わたしはせっかちらしい。実は10月の半ばから11月末まで日本へ一時帰国していた。その間に方々へ出かけていって何十人もの方とお話をした。その中で、幾人かの方に言われた。「君はすこし待つってことを覚えた方がいい」「なんでもすぐ結論を出したがる」。驚いた。わたしは自分で自分のことを忍耐強いと評価していたからだ。
だがこの10年を振り返ってみると、確かに結論を急いだせいで失ったものがある。たくさんではない。でも、大切なものだった。長期的視野にたつ、というと株式投資の話みたいだが、自分の人生についてももうすこし長期的視野が必要なのかもしれないと、なんとこの歳にして初めて思った。なんだか今年は初めてづくしで参る。
決断せねばならないときもある。その決断がはたして妥当かどうかは、その時点で判断するしかない。けれども、その時点を含む未来を想定することは可能だ。その想定をしていなかった。
未来なんて考えてみたところで、明日死ぬかもしれないのに無駄じゃないか。もちろん、その可能性は否定できない。でも、特に持病もない若い人間が明日死ぬ確率は、明日死なない確率よりずっと小さい。明日背中から羽が生える可能性よりは大きいかもしれないが、明日太陽が昇る可能性よりはずっと小さい。要は、明日死ぬかもしれないのに無駄だ、と考えることは、未来の一つの可能性しか表現していない。もし自分の人生にニュートラルであろうとするなら、そういう考えと同時に、明日死なないかもしれないからこれやっとこう、とも考えるべきなのだ。
なんでかわからないが、ある特定の可能性、たとえば悲劇的可能性という選択肢をえり好みする人というのが一定数存在する。ちなみに、私もその一人である。もちろん可能性の世界はすべてが100円、ニュートラルというわけではない。ありそうなものから、なさそうなものまで、グラデーションがついている。ただ、いくつかは同じくらいの重みをもっている。そして、少なくともそれらを公平に判断する、ということくらいは、来るべき未来に対して現在の私が行うべきなんじゃないだろうか。
そんなわけで、もう少し真面目に未来というものを考えてみようと思う、ハイデルベルクの冬である。