逃げちゃだめだ?

困難は乗り越えられる。これは神話だ。
乗り越えられない困難だって、存在する。そういうときに、私はのたうちまわるより、いつも逃げてきた。乗り越えられない、なら、一抜けた。というわけ。
勉強とか、練習で、壁にあたったことのある人なら思い当ることがあると思う。ある段階まではぽんぽん進む。進むから楽しいし、楽しいから進む。ところが、あるとき突然できなくなる。くるくる回っていた歯車が、突然ぎしっと止まってしまう。いま、本当に自分の限界を受け入れている人はそこで、おや、と思っていろいろ試したんだろうと思う。人のアドバイスを仰いで、やり方を工夫して、集中して出来る限りの努力をしてみる。時間、体力、の限界を尽くしてやってみる。少しは良くなる。でも、ある日それでも前に進めない時が来る。そして悟る、そうか、これが限界か。
でも、私はそこまでやらなかった。
その壁にごんごん頭を打ちつけながら、その壁を受け入れ、そうか、これが私の世界か、ならばそれの中で何ができるか知ろうじゃないか、と、探索の手を自らの中へ向けることをしてこなかった。ただつまづいただけで判断して、逃げた。その限界がなんなのか、その困難がなんなのか、知ろうともせず、放りだしたのだ。そのときできることを、してこなかった。
逃げる場所なんてないのだ、ということを受け入れずにきた。逃げたところで、逃げたと思ったところで、この私の限界が定めた世界の内側でおろおろしているだけなんだ、っていうことを、たぶんどこかでわかってはいたのだが、ずっと見ないようにしてきた。
簡単に言えば、自分と向かい合うということを、してこなかったのだ。


困難を越えれば、限界を越えれば、すばらしい世界が待っている、だから頑張らなくちゃいけない。
本当に?
ちがう。そういうことじゃない。(もしそうだとしたら、それは逃げているのと変わらない。そこで待っているのは素晴らしい世界じゃないかもしれないということを受け入れずにいるという点で。)

その困難や、その限界は、自分自身のことを知る手掛かりなのだ。だから逃げちゃいけないのだ。逃げてしまったら、その困難や限界がなんだったのかさえ、わからなくなってしまう。なぜそこでつまづいて、進めなくなったのか。なぜそれが限界だったのか。わからないまま、あいまいな私という荒野をふらふらすることになってしまう。
私は私を知らねばならない。困難や限界は、乗り越えられねばならないハードルというよりも、そのすぐれたきっかけになる。
越えられる壁なら、越えられる。だから逃げちゃいけない。そして、何をしても越えられないのなら、それが自分の輪郭になり、自分を形づくるのだから、やっぱり、逃げちゃいけないのだ。