葛藤のこと

美しい本が届いた。クリスマスプレゼントだという。
さまざまな人物の表情をとらえたその写真集が、撮影された方の葛藤の集成なのだということが添えられた手紙に書かれていた。


また別の方とお話をしていたら、人間生きた時間でつくられる、長さではなく、ちゃんと生きた時間で、と仰る。


ちゃんと生きるというのがどういうことなのか、というのはけっこう難しい宿題だが、すぐ思い当るのが、自分の頭で考えるということだ。他人の話を自分の頭で検証すること。簡単なようで、なかなかできない。「開けたドアをなぜ閉めるのか」ということでさえ、私は満足に説明できなかった。
分からないこと、つまづいてしまうこと、うまくいかないこと、に立ち止まる。そのときになんでもないようにとらえてひょいと越えてしまうことも、あるいはできるのかもしれない。
でも、その石をそのままにしておけばいずれまたひっかかる。同じところで、何度も、何度も。そしてまた、なんでもないと嘯いて越えたつもりになる。でも、またひっかかる。
ちゃんと、というのは、ちゃんと石と向かい合うことだと思う。その石を砕くか、よけるか、遠くへ投げるのか、考えることが葛藤だと思う。必ず正しい答えが見つかるとは限らないかもしれない。でも、考えた行為と、そのとき真剣に出した答えは意義をもっているはずだ。


私は、葛藤を美化するつもりはない。とてもかっこわるい行為だし、葛藤しているときはひとに見られたくない。
でも、葛藤を経てできあがったという本は、美しかった。それ以外に表現できない。すごい、すばらしい、かっこいい。いずれでもいいのかもしれない。でも、私にとってその本は、美しいものだった。泥沼のような葛藤から美しいものが生まれる。なんだか、蓮の花のようだ。
ちゃんと生きた時間は、ちゃんと葛藤して答えを出しながら生きた時間なのだと思う。矛盾や、つまづきに目をそむけず、向かい合った時間なのだと。それはくださいといって手に入るものではなくて、そのように生きることによってしか、手に入らない。
すぐに、変わるのは難しいかもしれない。でも、少しずつでもちゃんと葛藤して、生きてみようと思う。目をそむけずに向かい合って。


とまぁなんだか抹香臭くなったが、要するにふだんどれだけふざけてようとかまやしないが、肝心なところで逃げたらだめだということだ。勝負するときは真正面から勝負する。凡人にはそれぐらいしか道がないのだ。