甘えたちゃん

そろそろブログのタイトルに「月刊」とつけたほうがいいのではないかという気がしている今日この頃みなさまいかがお過ごしでしょうか。

さて本日は「あまえた」の話をしたいと思う。世にもおそろしい話だが、何を隠そう私は三十路を迎えてもまだ”あまえた”なのだ。構造はだいたいこんなふうである:

相手は自分のことを重要視しているかつ必要としている
また相手は自分のことをよく理解しているかそうしようと努めている

それゆえ相手は自分のことを受け入れることができ、またそうすべきである


この構造の恐ろしいところは、テイクばかりでギブがいっこもないところだ。こちらはいくらでも身勝手に振る舞うことが許され、他方で相手の方はその我がまま放題を拒絶せず受け入れねばならないことになっている。対等な関係などでは全然ない。相手はこちらの奴隷であり、言うことをきかねば暴力さえ振るわれる類の存在だ。なんとも迷惑な話である。

さらにこちら側がなぜ相手にそれを求めるのかというと、こちら側もまた同じように行っているから、と理由づけられる。しかし、それが相手の望むものかどうかは問題ではないので、結局のところ、その行為はおしつけでしかない。つまり構造もふくめ、すべてがこちら側からのおしつけとおしきせであり、妄想のかぶりものを相手にすっぽりとかぶせて都合のいいお人形にしてしまうのが”あまえた”である。
このため、相手に人格は認められず、ただこちらに奉仕することのみを求めるようになる。私が男だったら確実にDVを行うたぐいの性格だとおもうととにかく恐ろしい。

だがもっとも重要なのは、”あまえた”がこの構造から出ようとしないどころか、主観的に困難な状況にある場合、その困難の原因を構造の内側に閉じ込めてしまって、その中をうろうろすることで構造そのものの中で関係をどろぬまにしてしまうことである。
「逃げ場なんてない」「これ以外やりようがない」という追い詰め方をし、「だからだめだ」と結論する。主観的不利益を極度に嫌うため、客観的に特に不利益が生じていない場合でも、主観的にみて不愉快な状況が生じていれば”あまえた”は怒り狂うことがある。迷惑はなはだしい。ことほどさように”あまえた”にとって主観的世界はなによりも大事なのだ。

というわけで自分がこんな”あまえた”であることに気付きどうにかしなければと思い始めてそろそろ10年ほどが経過する。どうにもなっていないところをみると、根はよほど深いらしい。という不毛なお話。