女の子という表面
id:annapriqueさんが女の子について書いてくれました:
「女の子中毒」http://d.hatena.ne.jp/annaprique/20090524
たぶん、annapriqueさんと私とで、「女の子」のとらえ方が違っているのかもしれないな、って思いました。私は、女らしさや、性別としての女、あるいはある人自身が女の子というものに対してどういう意識を持っているかという話をしたかったわけではないと思います(書いてるときはあまり意識しないので、よくわからない)。
ひとつ言えるのは、私にとって女の子は外から見るものだったということです。私自身は女の子のサークルに属したことはない。とにかく、自分自身が女の子であったことはないので、すべては想像上の女の子の話だということです。女性であるその人自身がどう思っているかではなく、「女の子」というものを彼女たちがどう取り巻いているのか、どう形成しているのか、そして私にとってそれがどう映っているのかということ。彼女たちの間でやりとりされている「女の子」というコードの話。彼女たち自身がそれをどう思っているのかは、このさい関係がない。彼女たちがやりとりしているもの、彼女たちが醸し出しているもの、彼女たちが内面にしようとしているようにみえるもの。私は彼女たちに寄り添えないぶん、彼女たちが無意識のうちにやりとりしているものについてナーバスになっている。私はそこへ所属したくてしたくて仕方なかったのだけれど、決して所属できなかった。私にはなくて、彼女たちにはあるもの。それが女の子であるということ。
もうひとつ言えるのは、女の子のサークルという言葉で言いたかったのは、具体的なグループの話ではないということ。具体的なグループでいえば、私はそういうの、たくさんみてきました。学校のほとんどが女の子だったから。ただ、その話がしたかったんではないです。言うなれば、女の子という形式とその人との間で行き来している過程の束縛の話。
たとえば、そうだなぁ、可愛いモデルがいたとする。ある人はそのモデルがすごく好きで、そのモデルになりたいと思う。そのとき、その人は何をするのか。モデルと同じブランドを身につけるのか、モデルと同じ髪型にするのか、あるいはモデルと同じ顔の形に整形するのか。そのときにトレースされているものがモデルの形式であり、ある人がもちうるモデルの部分だと思うんですよね。私はそのモデルを、女の子にしたらどうなんだろうなって考えています。女の子って、いないでしょう。モデルみたいには存在してないでしょう。ひとりひとりの、人間はいるけれど、その人間が女の子になるのって、どういうときなんだろうって、思うわけです。
確かに、そのひとひとりひとりについて見ていけば、薄っぺらくもないし、考えていることもみんな違う。ただ、彼女たちが共有しているようにみえるものに関心がある。彼女たちは誰なのか。それに関心がある。私にとってそれは、表ばっかりなのに底知れない不気味さがあるものです。明るくて、にこにこ笑っているそばで、真っ赤な血を流しているようなもの。キラキラした表面がなぜか毒々しく見えてくるような瞬間。そういう矛盾までぜんぶ見えるところに置いておくような、つまり裏側を表に置いておくような、そういう有り様を私は女の子という形式に感じ取っている、ということなんですけどね。
だから、
大人になるほど「女の子のサークル」ってお伽話のような存在になってきた気がします。
http://d.hatena.ne.jp/annaprique/20090524
っていうのは、私もそうだと思う。私にとって女の子っていうのはもともと、ファンタジーなんです。
だとしても、そこにほんとうの女の子が共感できる何かがなければ、私のファンタジーは成功したとは言えないですけれども。