女の子のおしゃべり
最近ずっと女の子について考えている。なぜなら私は女の子になりたい気がする。(まだ大丈夫だと思う)
ところで、女の子のおしゃべりにゴールはない。あと、女の子のおしゃべりは、基本的に同意と共感で成り立っている。でもきっと、女の子のおしゃべりにはもっと恐ろしいところがあるはずだ。まず、女の子は女の子を信用していない。常に自分が一番でいたいからだ。「みんな一緒」でも、どこかで優位を見いだしている。知ってか、知らずか。だから誰かに気を許すことは(特にそれが女の子相手のときは)ほとんどない。
ただし、それはその人が女の子であり続けようとした場合の話だ。女の子であり続ける限り、彼女は女の子であることの責任に縛られ続けるし、またそれをきつくきつく結ぶことによって、女の子のサークルは結束を固くしていく。女の子同士の結びつきが強いのは、それが女の子同士だからだ。もし、彼女が女の子であることをやめたら、その結びつきがいかにもろいものであるかを知るだろう。女の子同士のおしゃべりは、常に自分が女の子であることを示し続ける脅迫的な行為でもある。
結束の強さは、同時に、異端者の排除も強くする。女の子は、女の子ではない者に冷酷だ。可愛くないもの、また可愛くあるための努力をしないもの、そうした女の子をおりたひとたちに対して、女の子は驚くほど冷淡に応ずる。それは緩やかな無視に始まり、最終的には窒息に至る。サークルは守られ、そうして女の子は女の子でありつづける。
努力、は、サークルに居続けるためのひとつの鍵だ。(でも、努力はたいていの場合鍵かもしれない)
あるいは、努力のないサークルもあるのかもしれないけれど、私はそれを知らない。
女の子のおしゃべりは残酷だ。女の子は常に残酷で、可愛く、不気味だ。それなのに、女の子は薄っぺらい。簡単に崩れ、失われていく。女の子は受け継がれ、いつも存在するけれど、実体と呼べるようなものはきっとない。