無くしたことを儚む
何かを失うのはそんなにたいそうなことだろうか、と思う。今日、かつて少女だったひとが少女だった頃の自分を懐かしみ、今はもうそうではなくなったと哀しんでいた。けれど彼女は、今もそうして生きていて、彼女自身としていまある。それなのに、どうして、いったい、何を哀しむのだろうか。
完璧な瞬間というものがあるとして、その瞬間に出会ってしまったとしたら、確かにそれが失われたときに私は呆然とするかもしれない。なぜなら今の私はすでに抜け殻も同然で、惰性で生きているほかないからだ。しかしもし、そのような完璧な瞬間に出会っていたなら、私はきっと生きてはいない。なぜならその瞬間の後にはただ底なしの絶望だけが訪れるからで、その淵から這い上ることが出来るほど私は強くない。結局のところ、私にはそうした完璧な瞬間を感受できるだけの能力があるのかも怪しいので、恐らくそのようにして死ぬこともないだろう。
たぶん、だけれど、彼女は喪失をそれほど嘆いてはいない。不可逆であることは時として息を呑むほど残酷だが、しかしその傷は完璧な瞬間のもたらす底なしの淵よりはずっと浅いのだ。彼女は今の彼女を否定するふりをしながら、実のところ、今の彼女自身を相当に賛美している。彼女は自身を受け入れているからこそ、懐かしむことができるのだ。いつも、対象は私たちの外にいる。そして彼女は自らではなくなった少女を見ながら、その美しさを儚んでいるだけなんだろう。