仕事というもの

周知の通り私は仕事に対する要求が低い。ほとんど0に近い*1。たぶん、与えられたものはどんなことでもやる。それが相対的に効率的に稼げるのかとか、好きかどうかとか、やりがいがあるのかとか、そういうことはあまり重要ではなく、とにかく、何かを行っているということが私にとって働くということであるような気がする。
思えば私は、何も行っていない時間が長すぎた。学生時代の大半は何もせずに過ごしてきた。ある友人は無為な時間こそ必要なのだと述べたけれど、私はその必要性を忘れるほど長い時間を無為に過ごした。おかげで、何もしないという状態が人生において飽和レベルに達し、何かをするということ以外に何もできなくなってしまった。
その結果ではあるが、現在の仕事がどれほど悪辣な条件にあるかということを考慮せず、無心に打ち込むことができている。これはもしかすると不幸なことかもしれないと、周囲のひとを見ていて思う。しかし、私にはそもそも、怒りや不満を持てるほど、その行為に対する要求がないので、これはもうどうしようもない。そうですか、大変ですねと相づちを打つので精一杯だ。
言ってしまえば、仕事に対して無知なのだと思う。そして、無知はとても心地良い。この心地よさは何なのかと思う。無責任なのかもしれない。しかし、私はもはやこの先に責任を持とうという意志を失っていて、だとすると、一体どうしてわざわざ苦しいと思うことを積極的にせねばならないのか、わからない。私は、自分自身に対して、無知でいてはならないと、むち打つ理由を失っている。
ところが、では適当に仕事をこなしていけばいいと思っているのかというと、そうでもない。やるからにはきちんとやりたいし、《その範囲の中で》最高レベルのものを目指したい。しかし、それがなんであっても構わない。今はこの仕事をしているけれど、それが違うモノであればそれを極めたい。どうも、矛盾しているように思えてならない。
おそらく、私は要求されることに対してはいくらでも提供することができる。でも、自分から要求するということはほとんどない。とくにこと、仕事に関してはそうだ。どういう仕事がしたい、どういう目標を持っている、どういうことを実現したい、そういう未来に対するビジョンがないのだ。
結局のところ、私はただ、コマであることに甘んじていたいだけなのである。私は、有能なコマでありたいのだ。限られたゲームであるということを信頼したまま、その外側との交渉を絶っている、コマに。それはつまり、私は私であることをやめてしまいたいということでもあるような気がしている。私はあなたでもあり、彼女でもある。私は私であってもよく、なくてもよい。私は私である必要はない。私はどこにでもありうる、可能な私になりたいのだ。


追記:
私は私であることをやめたいというのは、私は私であると主張することの裏返しである。それゆえ、この主張はとても見苦しいものなので消してしまいたいのだけれど、未来への釘として残しておく。何かを話すことはいつも、主体に何らかの主張を帰属させてしまうので、やっかいだ。私はおそらく永遠に黙ってしまうほうがいいのだが、しかしそこまで言葉に対して決別することもできない。中途半端なまま。潔癖を求めているとしても状態として私はいつも宙ぶらりんなのだ。

*1:《ほとんど0》と《0》との間には埋められない溝があることはあるのですが