日々をつづることについて

大学にきて、もっともよかったと思うのは、結論のある文章を書けるようになったことだ。そしてもっとも残念だと思うのも、実はその点だったりする。それまで私はずっと、感覚のみで文章を書いてきた。自分が気持ちよいと思えるリズムと言葉だけで書いてきた。大学に行ってからはそれを反省し、書き直し、意味の通りやすい、いわば複雑さを縮減した文章にすることができるようになった。このおかげで論文が書けるようになり、誰かに説明をするときにも、以前よりはわかりやすく話せるようになった。
ところが、その結果として、私の文章に微かにあったあだのような、ひだのような、つっかかりやでっぱりがどこかへいってしまって、自分では面白いと思っていた特徴がなくなってしまった。割と、心底がっくりきた。なくなってしまうようなくせは最初から大したものではなかったのだろうとも思うけれど、もしかしてこれまで幾人かの人が言ってくれた私の文章の良さまでどこかへ置いてきてしまったのではないかと恐れたのだ。
私は、文章の中で寄り道をしなくなっていた。まっすぐ結論へ向かい、結論に必要なこと以外は話さなくなった。でも、私にとってその文章は退屈で、つまらなかった。特に、そこで伝えたいことが自分の関心から外れている場合は尚更だった。私は、内容というものにすっかり飽きていて、文体に飢えていたのだ。むしろ、内容というものは文体に多かれ少なかれ左右され、それによって構成されるのではないかとさえ、考え始めた。幻想を見せる技術の問題だった。
大学を出たいま、私はもう一度意味のない文章を書きたい。意味もなく、ただ連ねられていくだけの文章を書きたいと思う。書きたいと思うだけで書くのかどうかわからないし、そもそも書けるのかどうかもわからない。ただ、私は余剰のある文が書きたいのだ。無駄なもののもつ複雑さと豊かさみたいなものを取り戻してみたいと思う。論理的筋道を見失わない範囲で。私はいつも、理性的な狂気を知りたいと思う。