余生のような

昨日つつがなく大学院を修了いたしました。なにやらごたいそうなものまで頂き、ありがたいやら困惑するやら、かえって恐縮とはこういうことを言うのだと百けん先生も仰っていました。
不思議なことに、大学を出ることにはまったく未練がなく、むしろすがすがしいほどです。以前のエントリにも書いたような気がしますが、どうも大抵の知的欲求を果たしてしまったようで、まあ不抜けています。私は私として確立したものをここまでの間に達成してしまったようです。
かといって、では何かたいそうな業績でもあげたのかと言われると、まったくそんなことはありません。ただ好きに生きたという実感だけが残されているのです。これ以上何か強く強く欲求するというのもあまり考えられませんし、いえ、それは昨日書いたような事情ではなく、割と素直にそう思うからなのですが、まったくもって、余生のような春を迎えつつあります。
経済的には相当弱者であり、今後の生に対して不安がないかといえば不安しかないのですが、しかしその不安もなんだか現実味が薄く、もしかするとその不安は死に対する不安ではなく、社会的偏見に関するものに過ぎないのかも知れません。
学歴の無駄遣いと言われればそうなのでしょうし、やる気のない怠け者だと言われればそうかもしれません。ですが何者も、私にそれを強制することはできないのです。私がそれを望みませんし、それを望むことによっては私は幸福にはなれません。だから、私はそうしません。誰も私以外に私の人生を請け負ってはくれませんし、だからこそこの人生は私のものです。幸福は豊かさとは別の概念です。豊かで幸福な人も、豊かで幸福でない人も、どちらもいます。豊かさと幸福とがそもそもまったく結びついていない人もいるでしょう。
どうあっても生きねばならないということもありません。ただもしいま死んでしまうことになってひとつだけ心残りがあるとすれば、それは誰よりも私の身近にいる人のことだけでしょう。私の人生でただひとつの失敗は、この人の存在を許したことです。この人がいなければ、私はもうこの世に何も未練はありませんので、今すぐにどうなっても構わないのです。
ですからきっとこの先は、何かのために生きねばならないとなったら、きっとこの人のために生きるのだろうと思うのです。もしこの人の存在が失われたら、私はいまよりもますます身の置き所がなく、所在なげに漂う幽霊のようになってしまうのでしょう。この世というのはかくも儚く、だからこそ人は必死に何かにしがみついて、生きようとするのかもしれません。