情熱というものは

好きというのは怖いものです。自分のことがよくわからなくなるから。恋は盲目などと言うけれど、それは周囲のことが見えないのではなく、自分のことが見えないのです。だから誰かが誰かを好きという気持ちを、私は素直にみることができない。それはとてもみっともない行為だと思うし、ときに憎らしくさえある。ほほえましいなどとは到底思えない。おそろしい。
熱中するとき、それをしていること自体は心地良く、快いものではあるのだけれど、しかしそれをはたからみれば、みっともなくうっとうしく時に吐き気さえ催すほどの嫌悪を感じてしまいます。なぜかと言われても、私にはよくわからない。だからいま、私は自分がそういう状態になることをおそれて、没頭したり熱中したりすることを避けているのです。
自分が没頭したり熱中したりしていることをひた隠しにして、それでもその執着を捨てきれないときに、私はそのひとやものが好きなのだと思うことにしています。それは物欲とどう違うのかといわれると、ちょっと困ってしまう。でも、とにかく相手に知られてはいけない。誰にも知られてはいけないことです。だけど、相手に気づかせなくてはならない。相手が悟り、相手がこちらをみるようにしなくては、私は自分の没頭や熱中を解除することができないのです。それで私は恋をする。
ひとつのゲームなのだと思うことにしています。いつも、私はゲームをしている。相手に対する執着が強ければ強いほど、策略は巧妙になり、先読みは深くなります。可能な限りの選択肢を列挙し、対策を講じます。でも、そのゲームに没頭していることを、相手にしられてはいけない。これはゲームなのだから、没頭してはいけないのです。ゲームであることは、知られてもいい。でも執着していることを知られてはならない。これ自体もゲームです。
私はこういうエクスキューズをすることで、かろうじて何かに熱中するということを可能にしてきました。その右足を左足と一緒にぬかるみへ沈めることは、私にはできない。それはとてもおそろしいことで、ほとんど禁忌に近いからです。