たこつぼの中

某N先生が「湯川秀樹は日本で英語の論文を書いていて、当時の研究状況とは全然ちがうことをやっていたんだけど、結局そういう研究をしていたひとたちが気がついたら、湯川と同じコトをやっていて、それで湯川はすごかったんだということになった」とおっしゃった。「だから日本で自分の面白いとおもうことを徹底的にやっているだけでけっこう学問的には有意義なんじゃないのかな。アカデミックに成功するかどうかはわからないけど」ともおっしゃった。
分析哲学をやろうとすると、先行研究をふまえまくらないといけないし、さらに遡ってもちろん古典も読んでいなくちゃいけないので、膨大な読書量が必要になる。もちろん、英語、ドイツ語、フランス語、ひいてはラテン語、あわよくばギリシャ語が読めないとならない。そしてさらにロジックがよくできないと何を書いてるんだかよくわからない。私はそういうことを可能にする能力もなく努力も怠ったうえさらに興味をなくしてしまったので続けることができなくなったのだが、先生がおっしゃったのはたぶん、先行研究をふまえまくった緻密な論文を書くのもいいけど、オリジナルな発想を大事に練り上げていくのも重要だということのようだ。
思うに、学問的追究をあるレベル以上の水準で行うことができるひとというのは、自分のひっかかりがなんなのかずうっと考え続けることができ、かつ、それを学問の階段の一部に埋めこむ努力ができるひとなのだ。なんとか言いたい、なんとかしたい、なんとかここを埋めたい、そういう衝動にもにたひたむきさが、欠かせないと思う。
(ひるがえって私の場合、ちゃらんぽらんなうえ、浮気性でひたむきでもなんでもない。努力はするが、すぐ飽きるし、どんどん忘れる。ある程度達成できれば満足してしまうので、追及するということがものすごく不得手なのだ。)
もしそういうことがいまの日本で可能になったら、留学なんてしなくても、すごい学者はいっぱい出てくるんじゃないのかなぁと思う。能力のある人がみんな留学したがるのは、かつてのように学問を輸入するためではなくて、もはや学問環境の問題に過ぎないのではないかとか。(と、留学したことのない私が言うわけですが。)