ひきつづき、『眼と精神』

以前から引き続き、勉強会で読んでますけど、いやー、面白いよメルロ・ポンティ。初めて彼の文章が面白いと思った。これまで難解でしかなかった文章が、いきなり読めるようになることがあるんだと分かったときの快感!あれも分かる、これも分かる。そうかそうか、君はこう言いたかったんだ。そうなのか。久々にそれを感じました。作業ではない、読解ができるってすごく楽しい。でもこれは、一人ではたどり着けなかったとも思うわけです。今勉強会に参加してる人たちの発想や、考えや、読み方を聞いて、話して、違うと言われたり違うと言ったりしながら少しずつ読み進めていくことの相乗効果をはっきりと感じた。一人では、この文章は読めなかった。でも、一度とっかかりができてしまえば、すごく楽に読めるようになった。今回は、文章の面白さもさることながら、その、いわば集団知能のようなものの面白さを感じました*1
で今回もまたセザンヌが出てくるわけですが、今回は色で奥行きを描き出すことの特殊性に焦点が当てられます。それは絶対空間における二点間の距離でもなく、また平面上に描き出されたパースペクティブでもない、しかし両者へと通ずることを可能にするようなある空間の有り様の表現なのですが、それが色彩によって描かれるということが重要になります。つまり、それは形で対象を描くのではなく、対象のあり方を画布の上にそのあり方のままに描くための技法、というわけです。奥行きと色彩、この一見奇異な繋がりが有意味に立ち上がってきてしまうというところが、本当に面白い。

セザンヌは存在の芸術家(artisanat:職人)にふさわしいすばらしい言葉で、色は「われわれの脳髄と世界とが接合する場所」であると語ったが、それをクレーは好んで引用する。色のためには、形の劇(spectacle:光景、見せ物)をくつがえさなくてはならないのだ。それ故、問題なのは「自然の色彩の似姿」としてのあれこれの色彩ではない、――色という次元、つまり、おのれ自身からおのれ自身に対していろいろの同一性や差異性、ある感触、物体らしさ、そして遂になにかある物……を想像する次元が問題なのである。
(「眼と精神」p.287)

*1:この勉強会に興味ある人は右側のリンクから行けます。