続・パプリカ

asukakyoko2007-01-26

筒井康隆『パプリカ』(新潮文庫) by amazon.co.jp
筒井康隆の原作『パプリカ』(新潮文庫)を読んだ。
原作の白眉は、やはり夢を描いた部分にあった。特に、千葉敦子が目覚めていないことに気がつかないまま敵の手中に落ちていく際の描写は、ぞっとするほどよくできている。思考の暴走を止められないことの気持ち悪さと、それをおかしく思えないゆえに世界に浸っていく甘美さとが(たとえ悪夢であっても)淡々とした描写から迫ってくるのだ。文章を追う目覚めている私自身が、今目覚めていることの事実を疑ってしまうほど。それはまるで、分裂病患者の夢をモニターしながら自らも発症した、未熟なセラピストの気分だった。
今回原作を読んでみて、映画『パプリカ』は、原作を読まないと細かい仕掛けがわからないものになっていることがよくわかった。特に、原作のもつ作品それ自体の夢っぽさは(ラストシーンにみられるように)かなり意図されており、映画と共通する項目の一つとなっている。それを思えば、映画のリアリティのなさはむしろ必然だったのかもしれないとすら思う。*1
「夢が現実に混入する」ということにしても、映画では時間的な制限もあって簡単にしか原因に触れられないので、一度観ただけではいまいちすっきりしない。結局「夢だから何でもあり」という印象を受ける。だが、原作では割とつじつまの合うように説明がつけられていて、物語内での出来事が理解可能になっていた。
そして、言うのが難しいのだけど、やはりそれが、つまりつじつまが合うように語られ尽くしているということが、余計に完結した世界を作るのに貢献している。取り残された部分なく、世界が完結するということの安定感、とでも言えば良いだろうか。夢が終わることによってのみ、私は夢の終わりと、その安堵を受け容れることができるように、『パプリカ』という作品の自己完結性が、「この世界はここまでですよ」と告げてくれる。それはあくまでも語られた夢なのだが、夢であるからこそ、終わりがきたものだからこそ、語り尽くすことができる。現実は常に語り尽くせない。語り尽くせないものは、夢ではない。
ここには矛盾があるだろう。夢を無意識の世界として考えるなら、それはむしろ汲み尽くせない領域だ。汲み尽くす、つまり語り尽くすことによって夢を物語に閉じこめるなら、それはもう、夢ではない。夢を物語ったものは、やはり物語なのだ。だが私が夢を見るということが、現実におこることであるのと同じように、物語が夢を見るということも、やはり可能なのだろう。だとすれば、『パプリカ』は物語がみた夢なのだ。そして夢見るのが物語である以上、それは完結せざるを得ない。多少謎めいたラストシーンもあいまって、原作『パプリカ』は私にそうした解釈をせまる。
最終的にはどちらの『パプリカ』も、おそらく、現実との混入を意図していて、それは物理的組成をもったものが夢の中から出てくるというわけではないにしろ、パプリカに描かれた夢と現実との混入を自らの状況に照らし合わせるという行為をもとにして、現実にある私に対して現実的変化をもたらすという意味で、相当混入していると思う。だがそれははからずも、物語が通常もつ効果であるに違いない。
そういうわけで(?)、昨夜はまんまとパプリカのことを夢に見たのだった。

*1:ここで何をリアリティと言っているのかという話が問題なのかもしれないのだが、それはさておくとしても。