バベルの図書館4、カフカ


バベルの図書館 4 (4) カフカ
池内紀訳、国書刊行会、1988年初版、1993年二刷


以前ハービスエントのアンジェに行ったときに惚れ込んで買わなかった本。装幀がとてもよく手に馴染むので、持っていて疲れない。昨日、お天気も良かったので梅田までわざわざ行って買ってきた。カフカユダヤ的なものを私はよくわからずにずっと読んできたのだが、この短編集からは、それを感じ取ることができたように思う。
ボルヘスの序文がまた素敵なのだ。「周知のようにウェルギリウスは…」と始められるこの序文は、死にあたって自分の作品を残すことを望まなかった三人、ウェルギリウスシェイクスピアカフカを並べ、その実彼らは各々異なっていたと述べる。ウェルギリウスは美的な観点から、シェイクスピアは”実質的”に、そうすることを望まなかったのかもしれない。そしてカフカの場合は、もっと複雑なのだ、と。それは現代文学よりもむしろ『ヨブ記』に近いと述べたあとで、ボルヘスはこう続ける。

カフカは自分の作品を信仰の行為とみなし、作品が人びとを落胆させることを望まなかった。それゆえにこそ彼は、友人に自分の作品を破棄してくれるよう懇願したのである。カフカは、まじめな話、悪夢を見ることしかできなかったのであり、現実とはそのような悪夢を絶えず提供しつづけるものだということを、彼が知らなかったわけではなかった。同様に彼は、彼のほとんどすべての作品に見いだされるあの遅延というものの悲しい可能性にも気づいていた。悲哀と遅延、これら二つのことは彼を疲労困憊させることとなった。おそらく彼としては浄福に満ちたページを編纂することのほうをむしろ望んでいたのかもしれないが、彼の誠実さはそのようなページをでっち上げるようなことには応じられなかったのである。
(『バベルの図書館4 カフカ』、ボルヘスによる序文)

明解だ。この短編集を編纂したのはボルヘス自身であり、結局この序文に引きずられたまま私はずっとこの本を読むことになった。

カフカの何より歴然たる価値は、耐え難い状況を新たに創出したことにある。不壊の彫版のようなイメージを刻むのに、彼にはほんのわずかの文章があれば充分だ。……カフカの場合、推敲は創意ほど賛辞の対象にはならない。彼の作品には人間はひとりいさえすればよい。ホモ・ドメティクス(家庭人)--じつにユダヤ的、じつにドイツ的な人間だ--は、いかにささやかであれ一つの所を得ようとするものだ、どのような序列のなかにあっても--宇宙の中においてであれ、官庁においてであれ、狂人収容施設においてであれ、監獄においてであれ。肝要なのはプロットと環境であり、寓話の展開でも心理的洞察でもない。だからこそ彼の短篇物語のほうが彼の小説より優れているのであり、だからこそこの短篇小説集はかくも特異な作家のスケールを十全に示していると断言する正当性がある。
(同上)

各々の短篇を書いたのはカフカだが、この本をこのように作ったのはボルヘスなのであり、その意味では、これはボルヘスの作品とも言える。そして、そのことからも、この本のつくりは文学ではなく『ヨブ記』のようなものなんだろう。


と書いたあとで思ったが、ボルヘスは、カフカの作品の連なりの一部を切り取ったにすぎない(あるいは、私がボルヘスにそう思いこまされているにすぎない)。とすれば『ヨブ記』の作者は、ボルヘスの言うとおり、カフカなのだということになろう(と私がボルヘスに思いこまされているということになるだろう)。まぁ誰が作者かということはこのさいどうでもよい。ともかく、一つ読み終えるたびにクラクラする短編集だ*1


ちなみに収録の短篇は以下:
禿鷹・断食芸人・最初の悩み・雑種・町の紋章・プロメテウス・よくある混乱・ジャッカルとアラビア人・十一人の息子・ある学会報告・万里の長城

*1:カフカを読むと例外なく目眩がするのだが。